DVDで小津安二郎「晩春」(1949年)を観る。これ、まだ占領下時代の作品なのだな、原節子が「娘」として、結婚について悩むのは「晩春」と「麦秋」だけなのだな…と、今さらのように思った。とはいえ小津作品における原節子は、役柄としての立場は違えど、いつも生きる上での岐路に立たされて、同じような悩みを悩まされている。それが「晩春」においては、ある大きな力へ屈服するかのような、あるいはこの選択が私ではなく父の望むものなのだというのを受け入れるような(失恋し別離を受け入れるような)、そういった受容の結論に行き着くのだけど、「麦秋」においてはそれがまず何よりも自分自身の決断として選び直されるかのようで、そして「東京物語」さらに「小早川家の秋」では、夫亡き後、たとえ周囲の意見や気遣いに背こうとも、自分の生き方を自分自身で決める姿へと書き換えられるように見える。原節子はいつでも、もともと「このままが良かった」人なのだが、それを周囲の勧めに応じて、望みをあきらめて手放し、替わりに別の何かを得る。しかしそれも束の間の事で、時を経て得たものは失われ、結果的には、本来このままで良かったはずの何かを、もう一度探しに行くような人だ。

それにしても原節子の怒りの表情の怖さ。こんな顔で睨まれて、ふいっと視線を外されたら、本気で怯え、あとでくよくよ凹まされることだろう。