小林信彦「ぼくたちの好きな戦争」を読んだ。戦争に関する有名な過去の小説作品、「高い城の男」とか「スローターハウス5」とか「野火」とか…、戦争を描くにあたって本作はまず、そんな過去作品の形式を(悪ふざけや荒唐無稽も含め)意識して書かれたものだろうと思われる。様々な登場人物、立場、視点、虚実を入り混じらせることで、混沌と喧騒の向こうから、あの戦争が浮かび上がってくるのを期待して。とはいえ本作はその手法というかお手本への意識が強く出過ぎているようにも思われ、各章がぎこちないコラージュのようでもあって、長大な物語の各要素が思ったほどまとまった大きなうねりを呼び起こすにはいたってないように思われる。

物語前半、日本統治下の南洋諸島の箇所は面白かった。「戦争に負けてない」というのは、こういう感じなのだなと思った。このあと「虚構」として挿入される枢軸国勝利の世界線から感じさせるものよりも、まだ日本軍の勝利が続いていた時期の空気感を背景にした前半パートの方が、よほどその「虚構味」にハッとさせられる感が強い。

戦争に負けるというのは悲惨なものだな、、と、占領下のシンガポールのホテルのテラス席でビールを飲みながら史郎は考えている。日本人だけ電車の乗車賃が無料なことを歓び、イギリス人捕虜がトラックに乗せられて運ばれている、その哀れにもみすぼらしい姿を見たときに、そう思う。

かつてはオランダ、そしてイギリス、さらに日本によって占領された、シンガポールをはじめとする南洋諸島。現地人の給仕はテーブルに掛けた彼らの顔を見て、日本人となればコーヒーもビールも勝手に出してくれる。ヨーロッパ調の邸宅はかつての主が追い立てられた後を、日本陸軍将官がそのまま自宅として利用している。内地と違って、南洋の島々にはまだ食糧も酒も煙草にも困らないし、アメリカのジャズもポピュラーソングも、国策にかなうやり方でさえあれば、その演奏が禁止されているわけではない。

大東亜共栄をテーマにした映画製作の準備が着々と進行している。軍部の意向にも沿いつつ、現地住民の反感を招かぬよう配慮しつつ、巨額の製作費をともなった、アジアのあらたな方向性を示す超大作が構想されているのだ。キャストとして是が非でも出演したい史郎は、そのことが気に掛かって仕方ない

スパイ容疑で逮捕され翌朝に銃殺される者もいれば、物資の横流し先を幾つも抱えて利益を生み出す仕組みの準備に余念がなく、戦争終結後の我が身の立て方を周到に準備している将官もいる。

こんな混沌とした、先行きの読みにくい時代だからこそ、我が身の程を知り、必要な決断を下し、果敢に前に出なければならない。兄の公次は、そうやって著名な風刺画家として名をはせた。ここぞとばかりに対象の弱みや特徴を誇張し、敵を愚弄することで人々の共感を得る。人々に響き滲透する標語を、次々と編み出す。

この戦争が、いつまでも続くわけではないだろう、いつかまたこの日常も終わり、あらたな局面がおとずれることだろう。しかしなにしろ、戦争に負けるというのは悲惨なことだ、この聖戦における日本の戦況とそれによってひらけた地平を、日本人は大いに活用すべきなのだと思う。理由が明確にならぬ一抹の不安を忘れることはないにせよ「なにがなんでもやり抜くぞ!」の精神で。