配送されたスピーカーを早速設置し、まずはSteely Dan「Gaucho」より"Babylon Sisters"を、続けてDonald Fagen「Kamakiriad」より"Trans-Island Skyway"を再生する。とくに後者がいい。原音に忠実で極力正確と言えばその通りで、じつに生真面目な、きちんとした音。逆に言えば拍子抜けなほど無個性。しかし音の粒立ち一つ一つがみずみずしい。しばらくのあいだ、わかりやすく悦に入る。

つまるところ、この二曲を新たに鳴らして、聴いてみたかった。それに尽きるのだと思う。自分には、Donald Fagenの「The Nightfly」(1982年)の次作が「Kamakiriad」(1993年)であることが、いまだに信じられない。

当時「Kamakiriad」ではじめてDonald Fagenの名を知り、それを理解できず、それどころか「彩」や「The Nightfly」ですら、そもそもそれらの音楽を聴く耳ではなかった。こだわりというよりは偏狭というべきその視野の狭さによって、当時の自分がSteely DanDonald Fagenを正確に聴き取れなかったのだが、ならばそれが今となって、三十年も経過してそうではなくなった…という話では、必ずしもない。けっしてそうではなくて、やはりここにはおどろくほどに、何もなく、これほど空しい音楽もないとは思うのだが、ただし今や、その空虚さに救われるような思いがある。それが、当時と今との違いだ。

今日はえんえん、半日以上音楽を聴いてるだけの一日だった。こういう一日の過ごし方は久しぶりだ。一日中、本を読んでいることはあっても、読書はまがりなりにも何かが進んでいくことなので、しかし音楽はそうではない。いくら聴いても何かが進むということはない。少なくとも、これらの音はそうだ。ただその質感、在りようを、ひたすらたしかめるだけ。まったく無意味で、主題をもたず、物語らず、質と距離感、それら関係を、ただ無防備に受け止めているだけ。

(自分は個人的な考えとして、歌の歌詞とは、結局溶けてしまうものだと思っている。それはたしかに意味を持つが、言葉自体として受け取るのではない役割として音楽のなかにはめ込まれていて、それは音楽あるいは空気と混ぜ合わさり、やがて溶けて消えてしまうものだと思っている。それもまた意味だろうと言われればその通りかもしれないが、言葉自体の意味ではないだろうと。)

CD棚の、ずいぶん古い過去のものから最近のものまで物色し、思いのままに、手当たり次第に聴いた。なるべく意味を引っ張ってこないもの、単に音だけ、その目的にかなうものを選り分けて、ひとつずつ確認した。ひたすらチャネルを切り替えては、次なる曲を再生し続けた。