秋らしい晴天の下、水元公園は盛況だった。人がたくさんいて、犬がたくさんいた。水鳥たちはあまり多くなかった。無数のカモとカモメと、一羽のカワウ、二羽のサギを見かけた。

犬は人間と同じ目的で、公園に来ているような感じを受ける。公園がどういうところかわかっていて、他所の犬に吠え立てたりしたとしても、それも公園で許される範囲内でのふざけ合いだと自覚してる感じがする。彼らははっきりと人間的な感覚を我々と共有しており、ある意味では人間の一種である。犬という立場を自覚し、そのままで人間的なこの世界の把握に貢献する役割の一部を、しっかりと担って生きている。

シロサギ、アオサギの微動だにしない様子をじっと見ていると、ある意味でハシビロコウ以上に彼らは動かないので、ある種の鳥たちが元々そのような条件の下に生きているということだよなと思う。彼らと犬との違いは甚だしい。彼らから見て、我々人間と犬との見分けはつかない可能性さえある。彼らの感覚は、もしかすると生物よりも植物に近いところで作動していて、あの湿地に生息する多様な植物たちと自分らが、さほど隔たった存在であるとは思ってないのではないか。

まるで水に浮かぶゴミ容器か何かのように、かすかに波に揺られて、頭を胸元の柔らかい毛の中にごっそり突っ込んで眠っているカモたちもそうだ。あんな眠りかたは人間では考えられない。彼らもまた水草や藻のような存在から隔たっているとは自分らのことを思ってない気がする。

なぜ、そのようなことを考えるのか、そんな考えに引き付けられるのかが、公園の動植物の近くに寄った自分にとっての謎である。それは単なる現実逃避とも言えるだろう。本来の問題(卑近な問題)から目を逸らせたくて、そんなことを考えているのかもしれないだろう。しかしそうだとしても、目を逸らせた先があるのもまた、生々しい事実ではある。その生々しさが問題なのだと思う。

メタセコイアは二十メートルから三十メートルの高さがある。それらを見上げたときに視界に飛び込んでくるものには圧倒させられる何かがある。空に向かって、彼らはそれぞれ、針のように自らの頂点を上空に突き付けているのだが、それらのスケールに見合った行動様式が、人間の基準で言うなら高さ二十メートルから三十メートルの範囲内ということになり、そうとしか言いあらわせないのだが、これはそういうことではなく、もっと何か別の、言葉以前の世界での出来事に感じられる。

たとえば高さの尺度的には、超高層ビルの方がメタセコイアより高いことになるし、人間による人工的な物体でメタセコイアより巨大なものはいくらでもあるのに、メタセコイアの大きさは、その大きさから受け取ることのできるものは、それらと比較する意味がないと感じられる。というより我々が我々の範疇内でしか通用しないスケール基準しかもたない不自由さを意識させられる。