上野の西洋美術館の常設展示室に、ブラングィンという画家の「しけの日」という古臭い感じの絵がある。僕はこの絵の前に立つと、いつものことだが、一瞬我を忘れてしまい、長いことまじまじと観てしまう。

荒れた海、鉛色の空、暴風に覆われた、ほとんどモノクロームに近い絵である。

小さなボートに人が三人ばかり、船から振り落とされないように必死で貼りついてる。救助を求めて、近くの汽船を目指しているのか、その汽船も高波で大きな船体が斜めに傾いで、煙突から出る煙もほぼ黒い直線になって風に煽られている。しかしその甲板には人の姿がある。その表情までは見えないけれども、顔色がやけに良くて、まるで甲板に小さくランプが灯っているみたいだ。

しかし彼だって次の瞬間には海に投げ出されるかもしれない。遠くにはさらに巨大な帆船の姿も見えるけど、いずれもただ高波と暴風に耐えるだけ、きっと自分のことに精一杯だ。

あの小さなボートの乗組員らを救助するなんて至難の業だろう。そもそも大きく斜めに傾いでいるのが、汽船なのかボートなのか、あるいはこれら全体を見る視点の方か、それすらも判然としない。この絵の外側だけは安全と思って良いのかどうか、次の瞬間には自分も同じ波風に襲われないとなぜ言えるのか。

暴風が煙と雨と水をすべて撹拌し、あたりを一様なグレーに塗り潰そうとする。絵の一部が霞にほぼ消えかかってる。自然には逆らえないし、運命にも逆らえないだろう。それはそうだとしても、我々が今ここに経験しているこれとは一体何か。このあとさらに信じがたい出来事が、我々を待ち構えていたとして、もしかすると、あの消えかかってるあたりに、まだ現れていないほんとうの恐ろしさの核の部分が隠されてはいないだろうか。

これは絵画だから、その後の彼らが救助されたのか、あるいは遭難したのか、それはわからない。そのどちらかですらない。ここに運命的なものはない。もしこの絵の題材が何らかの史実だったとしても、そんなことは関係ない。この絵に時間が経過して、この出来事の結果が到来することはない。いつまでも永遠にこのままだ。この風も波も、今ここにある現在時間そのものであり、それ以上でも以下でもない。だから死んでしまうかもしれないが、まだ死んでない。その一瞬そのものだ。

「永遠」と言ってしまうと、そこに分厚い時間の積層を思い浮かべてしまうのだけど、そうではない。物量的なイメージの時間ではない。ふりかえったり、仰ぎ見たりできるものではない。今これ、この一瞬しかない。言葉で説明することはできないのだ。今まさに、死ぬかもしれないのだ。