食物の恨みの恐ろしさ、食物をめぐる人間同士の争いや裏切りや嘘を、僕は経験したことがない。それは生まれた時代の恩恵だったろう。自分の親世代ならどうかと言えば、たとえば1941年(昭和16年)生の亡父は戦時下や敗戦直後のもっとも厳しい時代に、まだものごころついてなかっただろうし、あの田舎の漁村であれば東京のような食糧事情とはまた別であったろう。しかし非常時における人間の排他性や私利私欲の片鱗は、幼少時からさんざん経験したのではないかと思われる。

とはいえ「昭和一桁世代」とそれ以降には、根本的な相違があるとも聞く。それはいわば極限状況の体験有無とでも言うべき何かだろうか。第一次ベビーブーム(1947~49)の親世代はまさに戦時を生き残った人々で、第二次ベビーブーム(1971~74)で生まれた子供に、まさに自分も含まれるのだが、このときの親世代は焼跡の記憶もはじめから薄らいでるくらいの人々になるだろうか。

子供は必ずしも、親から何かを託されて生まれて来てるわけじゃないからなあ…と思う。親とはむしろ常に背後を気にしている生物だと思う。未来について想像するようには、人間は元々出来てないのじゃないか。飢えや苦痛や裏切りの記憶だけを元手にして、一寸先をまさぐる生き方がまずあって、子供とはそういう事情でとくに脈絡もなく生まれてくる。飢えから逃れて食べようとする欲望の分散拠点化みたいにして。