皇居東御苑の高台から、目下の堀と生い茂る木々の向こうに、竹橋方面に立ち並ぶビル群が見えた。あのビル側からも、この森の様子がよく見えるのだよなと思う。毎日新聞社ビルはずいぶん古く見えるけど、建て直しとかの計画はないのだろうか。できるだけそのままが良いと思うのだが。

二十代の頃、あれらビル内のオフィスで数か月間アルバイトしたことがある。あれは僕のデスクワーク初体験だったが、連日ものすごく暇で、たまに呼ばれて簡単な作業をする以外は、ただぼんやりと一日中デスクに座っていた。あれをデスクワークとは言えないかもしれない。見かねた周囲の人たちから雑誌などあてがわれて、興味ない記事をぱらぱら読んだりしていた。

周りがそこそこ忙しそうに立ち働いているなか、一人だけ暇をもてあまして、そもそも彼ら彼女らがどんな仕事をしていて何が忙しいのかさっぱりわかってなくて、それが後ろめたさや居心地の悪さにつながることもなくて、疎外感も親近感もなく、ただそこにいる。当時の自分の神経が図太くて図々しくて楽天的だったというのもあるけど、あの日々はほとんど、幼児の感覚を思い出させるようなひとときだった。

幼児の感覚とはつまり、泣くとか我儘にふるまうとかではなく、ただ傍観者でいること。やることを抱えてるすべての大人たちの、義務の遂行やら贈与やらめまぐるしいやり取りに明け暮れているのを、幼児はただじっと見ている。意味とかいっさい考えてないし、心配も悩みもない。むしろふいに理由もなく甘やかな恍惚が与えられるのを無心に待っている。

そういう時間に生きているのが幼児で、つまり自分が特別扱いされていることを、当然のごとく受け入れ、平然としていられるということ。

もちろんアルバイトの身で終業時間に何もせずボケっとしていられるのは偶然であり、傲慢でもあり、何かの間違いであり、組織下におけるエラーであり、無駄なコストの産物に過ぎないのであって、けっして特別扱いされているわけではないのだけど、しかしそのような偶然の場に出くわすことでしか、幼児的特別扱いの錯覚を体験できないのもまた確かだ。(また非正規雇用の現場において同様なケースは度々あることだろう)

何らかの間違いによって偶然生まれ落ちた場所で、(何もせずにただ暮らす)一生を終える人もいるはずだ。それは誰もが知っている。それは誰かの現実で私のではない。いや一時だけ私の現実でもあった。かつては私も、私だけが庇護されていた。特別に、大切にされていた。あの感覚が、いまだになつかしい。必要十分な施しを受けつつ、できればいつでも、蚊帳の外で、必要性から外れたままでいたい。周囲を見ているだけでいたい。しかしそれは、当然ながら、なかなか難しい。