DVDでジャン・ルノワールゲームの規則」(1939年)を観る。そうなんだな、この時点で映画はここまで出来上がっている。というかこれ以降は大きな変革もなく、これまでのフォーマットを使いまわしているだけとも言えなくもないよなと思う。

全体の印象として「エドワード・ヤンの恋愛時代」を彷彿させる。また望遠鏡で真相を知ってしまうとか、他人の外套のせいで誤認されたりとか、ああ…これぞ映画の仕組みだと思う。

上流階級の人々の生活というものがあり、パーティーのために皆が集まる別荘のような場所がある。各客室があって廊下があり、そこを様々な人々が行き交い、通り過ぎ、あらわれては消える。彼らは狩猟に出掛け、兎を撃ち、射撃の腕をお互いに見せあう。夜は仮装大会、歌と踊りの宴会が繰り広げられ、どのドレスを着て、どんな振る舞いをするのか、噂をどう打ち消しやり過ごすのか、どんな風にことを丸くおさめるのかが、常に思惑として流れ続けている。

飛行士がいて、彼が想いを寄せる貴族の奥さんがいて、その夫、夫の愛人がいて、彼ら共通の友人である男がいて、屋敷の門番と奥さんの侍従役を務めるその妻がいる。

それぞれの人々がいて、それぞれの事情や都合や思いや何かをかかえていて、それらがピンボールの球のようにぶつかり合い、影響を与えあい、ある球は落ち、ある球は跳ね返る。その一つ一つに意味はなく、因果を追っても空しく、学ぶべき何かも教訓も戒めの効果もなく、ただそれだけなのだが、だからこそそれは勢いよく流れる川の流れの、水流の複雑な動きをじっと見続ける。

その説明の仕方、出来事の示し方、これはこういうことだと思ってくれ。…映画を進行させるのは、俳優たちではなくて、目に見えない何らかの語り手だ。語り手はそれを語り、最後に突き放す。あとになって残る感触は、語り手の手の采配と息遣いだけ。登場人物たちに対して等しく設定されたこの距離感と、出来事を説明するためにあらかじめ開けられた空間の使い方。それは機能であり納得させられるべき過程の示し方であり、その理解と納得を求める挑戦こそが作品であるとの態度だろう。(観客により強く理解と納得を求めるジャンルこそが、コメディなのだろう)。