スタニスワフ・レムの「ソラリス」で、ステーション内の混乱状況をひとしきり見入ったケルヴィンは、いっときの眠りから目を醒ます。自分がベッドに寝ていて、そのかたわらには、彼の奥さんがいる。窓の外からの光を背に受けた逆光気味の彼女がまっすぐにこちらを見ている。

目覚めたケルヴィンは、これが夢だと思っている。だから、すでに死んだはずの奥さんが、目の前にうつくしくたたずんでいて、その表情や髪が光に透かされてきらきらと輝いているのを見て、自分が自分に見せているお膳立ての律義さというか、自分の想像力とか記憶力とかの準備の周到さ、細やかさ、行き届いた配慮におどろいてもいる。

自分の意識世界のなかだけで、何もそこまで綿密にしなくても、彼女をまるで客観物であるかのように、周囲の要素込みの、現実空間内のごとく描写しなくても…との戸惑いがあり、でも図らずもそこまで設えたなら、せっかくなら、このひとときだけの彼女との会合を、めいっぱい楽しんでもいいのかも、とも思っている。

彼女はまだそこにいる。まだ消えない。きっとまだ、夢は続いている。彼は彼女を見つめる。きっとこれ以上見つめることで、いずれ、いつかは消えてしまうはずだ。それはたしかに、そのはずなのだ。そうに違いないのだけれど、でも彼女はまだそこにいる。

迫真の夢。まだ失望は訪れない。喪失感とともに目覚める朝は、いつまで経ってもやってこない。醒めることのない夢のように、彼女はいつまでもそこにいる。時間は動いているのに、存在は消えない、そのようにして醒めないことが、幻覚は流れる時間に乗ることが、果たして恐ろしいことなのか。それは狂気なのだろうか。狂気だとして、それは私の側にあるのか、別の側か。狂気だとして、そのことの何が恐ろしいのだったか。

計算と検証を繰り返しながら、私は私の人生が非・狂気の領域にあるのか否かを定期的に確認する、のだろうか。

物語はまだはじまったばかり。いよいよ中盤に差し掛かる。