南天子画廊で「岡﨑乾二郎 出版記念展 Ones Passed Over Head 頭のうえを何かが」を観る。

はじめはたどたどしく様子をうかがうような気配だったのが、早急に恢復され、要素がうごめきはじめ、速度を早め、密度を高め、線は植物のように伸び、色は広がりをまさぐりはじめる。

技術力とは、画家の身体よりももっと下層に定着していて、これは消えないもので、むしろ身体のほうが技術力によって行為や動作を定義付けられているのだろう。絵を描くとは身体の限界範囲内で何事かを試すということではなく、身体の限界範囲を更新・拡張することに近いのだろう。

マティスの人物をみた時にも思うことだが、作家が顔を描くとき、それがいわゆる写実的でない表現だとしても、いやむしろ写実的でないからこそいっそう、そこにあらわれる個性というか、同一性というか、そこに宿ったとしか思えないキャラクター性が立ち現れるように思うのだが、あれは何だろうか。

よく言われるのは、人が顔を描くとき、それは描いた本人の顔に似るというものだが、そういうことだけでもなくて、描かれた顔はかならず描いた人の、ある統一傾向を示すように感じられる。その人の子供たちというのか、精神の擬人的表現というのか、その人の長年あたためた時間の体積というのか、そこにその人の内面があることの徴のように、それらの顔が見えてしまう。