昨日のことだが、保坂和志の「小説的思考塾vol.14」のためRYOZAN PARK巣鴨へ行く。

きっかけとしてのテーマがあり、モチーフがあり、それを元に考えを巡らせ、言葉をあてがう。言葉それ自体はありふれたものの集積でしかないから、それらはすぐにいつかどこか聞いたことのパターンに固まってしまう。それで動きを失うかと思えば、とつぜん横へ逸れ、脱線し、脈絡をうしなうこともある。考えは拡散し、薄まって、巡り巡って、ときには昨日と同じ場所へたどり着きもする。しかし、そういうことを何度もくりかえすうちに、そうじゃないことにもなる。そんな期待をほどほどにもって、過度に失望せず悲観もせず、とにかく試し続ける。

だからそれがもし以前に聴いたことのある話だとしても、前と完全に同じだったということではなく、それを必要とした言葉と、それに続く言葉が違う。それは毎度の挑戦であり、ゼロからの即興演奏であり、一発勝負であり、上手くいくかどうかは、やってみなければわからない、常に状態をそのようなところに留めておく。上手く出来てしまう場所を決して踏まないこと。安定それ自体のかたちを身体で揺さぶる。

そういうことを保坂和志は「群像」の連載において書く行為で試み、「小説的思考塾」では話すことで試みているのだと思っている。それを読み、それを聞くとは、とにかくその現場にいること、それを選んでいる事実を自分に示すことであるだろう。

ところで分析哲学の、あらかじめ定めた条件内でひたすら悩み悶え苦しみ続けることの、ある意味で自家中毒性的な傾向は、たしかにあるのかもしれない。論理というのがそもそも、人に対して抑圧的であり、人を恫喝しそれを呑み込むことを強制するような性質があるから、その「探求」をどこまで突き詰めようとも、人間を自由で晴れ晴れとした場所へはけっして連れて行ってくれない、とも言えるかもしれない。

しかしその一方で、人は抗いようもなく分析哲学に惹かれる。考えるなと言われても考えてしまう。考えることそのものには歓びがある。それは何かに淫している状態、不健全な状態であるかもしれないが、その極限まで突き詰めた思考それ自体に、独特な艶光りが見られることもまた確かで、その光沢に魅せられてしまう人が多いのも間違いない。

ウィトゲンシュタインも最期は「私は素晴らしい一生を送った」と言って死んだ、それで良いのだろうと思う。