ヒューマントラストシネマ有楽町でケリー・ライカート「ファースト・カウ」(2019年)を観た。こんなに面白くていいんだ…と、意外に思うくらい、面白かった。ちょっとサスペンス的というか、どうなってしまうのか…という不安と期待で最後まで引っ張られていくところが面白いわけだけど、ただしそこが本作のもっとも重要なところだとは思わない。

「オールド・ジョイ」を思い出したくなるところはあった。本作もやはり、理由も問えず説明もできないような、とにかく今は見たままに成り立っているらしい、男性二人の関係というか、近すぎもせず遠すぎもせず、なぜか維持されるその距離感、それを描きだすことが第一目的の映画だと、思いたいところはあった。

そしてそれとはまるで無関係に、秋の紅葉にところどころ染められた森の中の景色が、あまりにもうつくしくて、開拓時代の村落に集まる男たちは誰もが殺伐としていて攻撃的で不寛容で、ぼさっとしてたらあっという間に身ぐるみ剝がされそうな、すさまじく厳しい共同体のなかで、そういうノリとは根本的に合わない二人が、二人なりになんとか、この社会で上手くやっていこう、一山当てて、金を得よう、今の状況から脱け出そうと努力をするのだけど、くりかえすけど彼ら二人が互いに認識し合っている相手への距離感とか自分の思いの相手への依存度合いとか、何か不思議なニュアンスが消えることはない。

この映画は、ふたりの人物が出てきて、最後はどうにかなってしまうのだなということが、まず冒頭で示されて、いわば最初に示された決定的な場面に向かって、二人の登場人物が彼らの運命に沿って進みゆくお話で、だからこの映画を観る者はみな、彼らが最後にどうなるのかをわかっていると言えばそうなのだが、ただ結局はそうでもない。絵として、映っていることはそのままだとしても、映ってないことは予想で埋めるしかない。でもそれこそが過去というものだ。映画は過去をあつかう。その手つきと仕上げの丁寧さ、品の良さ、旨味や塩気をほんのわずかだけ控えめにして、作為の匂いをこころもち退かせる感覚的な正確さ。

もの言わぬ牝牛の瞳の動き。その目は何も言ってないのに、ものすごくたくさんのことを物語るかのようだ。