柏のキネマ旬報シアターで、アキ・カウリスマキ「枯れ葉」(2023年)を観る。ロシア・ウクライナ間の戦争報道が、ラジオから聴こえてくる。それは戦争が続いていることを示すと同時に、この時空間が我々と同時代であることを示す。だからそれは同時代であるが、しかしカウリスマキの映画でもあるので、カウリスマキ的な統一感、ある美意識に下支えされている。

主人公の部屋にラジオはある。が、テレビはないし、インターネット環境の気配もない。食器は一人分、いや、いつも冷凍食品を食べているから、それすら無いのか。これは彼女のライフスタイル、選択された色、彼女の美意識によって統一された部屋で、その部屋で彼女はひとり、裕福ではない簡素な暮らしで、浮かぬ思いもあれば苛立ちもあるけど、それでも毅然としている。

彼女やその街の人々は、仕事が終わると、居酒屋でビールを飲み、ステージに上がって、カラオケを楽しむ。ジュークボックスで音楽を楽しむ。突拍子も脈絡もない、不思議な、独特な、しかし如何にもな、あーこういうコンピレーションありそうだねとか言われそうな選曲の、さまざまな言語の、さまざまな音楽、バンドの生演奏、スピーカーから聴こえるレコードの音。

彼女は男と知り合う。スマホだの、SNSだのも無いのか、電話番号は紙片で渡されるし、しかし携帯電話はもってるのか。タバコにはマッチで火をつけて、吸い殻は道端にポイ捨て。いったん出会うすべをなくした男女二人は、ふたたび映画館の前で出会う。食器を買い、スパークリングワインのハーフボトルを買い、白アスパラの前菜をつくって、部屋に招待した男に供する。男は酒を飲みたがる、もっと欲しそうにする。女は失望する。なかなかせつない。どちらの気持ちにも共感できる(笑)稀有な場面。(この場面は男女の性的関係に互いが感じるところの食い違いにも似ている)。

記憶がややおぼろげながら前作「希望のかなた」にはまず、この現実・この世界に対する強い憤りや怒りがあったと思われ、それがカウリスマキ的な体質やリズム感と有機的に絡み合って、映画としての面白さを生み出していたような気はする(と当時は思った)のだが、本作においては、その度合いがどこか中途半端なまま、ただカウリスマキ様式の反復をずっと見せられている感じもしてしまい、正直なところ中盤まではやや退屈した。しかし犬が出てきたあたりから、少しずつ良くなった。犬が出て、彼女の表情が少しずつほころんできて、笑顔さえ見せるようになって、そうかこの話は最初から最後まで、彼女だけの話なのだな、男の方はあまりどうでもいいのだな、あの二人の関係は、さすがに男が頼りないというか、幸福に長続きするかはちょっと怪しいけど、きっと彼女の表情を見ているだけで、この映画はいいのだなと思った。

(男が退院時に着せられる服は、あれは彼女が働いた酒場の店主のものだったかな…?)