Amazon Primeでケリー・ライカート「ウェンディ&ルーシー」(2008年)を観る。ただの好みの問題で、優劣などないし、比較自体が無意味なのは承知の上で、つい「枯れ葉」と較べたくなってしまい、そしてこっちの方が全然いいなあ、と思ってしまった。

貧困、失業、家庭問題、アメリカの田舎など、いかにも現代的な、問題山積みな、それなりに気の重くなるような話であるはずなのに、なぜこの映画を面白いと思うのか。「枯れ葉」の語り方と、本作の語り方は違う。カウリスマキはロシア・ウクライナ戦争の今を、いつの時代かわからないように語るが、ケリー・ライカートは、今と百年前を、ほぼ同じように語ってしまう。

「オールド・ジョイ」(2006年)ではカーラジオから政治討論番組の音が大音量で鳴り響いていたけど、そういうことと映画があまり関係ないというか、絶妙な距離感をとっているというか、そういうのを映画内に取り込んでいるくせに、映画自体は平然となんでもないかのように立っている感じで、それは本作でもそうだ。

万引きを見つかってウェンディは店員の若い男に取り押さえられる。男の得意げで溌溂とした、業務遂行に迷いなく一途な感じと、それを若干引き気味に、しかし店員の言うとおりに警察への連絡をする上司の男の態度。その後いなくなってしまった犬のルーシーを探し回っているとき、裏口から偶然出てきたさっきの店員が、お母さんの車で帰るところだ。ウェンディは半ばパニック状態で、犬のルーシーを探し回る。なりふりかまわずルーシーの名を呼びつつあちこち探し回る。まったく知らない土地で、知人など誰もいなくて、金もない。四面楚歌というか、完全に詰んでる状態に近い。

自動車修理屋での場面。店を訪れたウェンディをその場に待たせて、ひたすら電話の相手と喋って、電話を切って、用件はなんだと聞く。車が壊れた、何とかケーブルが壊れてる可能性を前の修理屋に言われたとウェンディが言うと、予想外の専門用語にすこし面食らったような顔で、また電話が掛かっていて、それに応じた修理屋店主は、ふたたび話を戻して、まずは見てみないとわからないと前置きしつつ、条件によって大雑把な見積もり額を示す。

このやり取りが、ほんとうに素晴らしい。こんなやり取りだけで、その修理屋がこの世界にあって、こんな店主が毎日仕事してるのだということが、まさに現実感として迫ってくるようだ。

警備員の老人が初登場する場面、ウェンディが車の中で寝ているところを起こされる。まったく悪い予感しかない登場の仕方なのに、結果的に、この警備員の老人はいい人だ。いい人だった。しかしいい人とは、所謂「いい人」という、わかりやすいものではない。この老人とウェンディとのやり取りにみなぎってるものは、安穏で生やさしいものでは全くない。

老人はその場に立ち、そこで出来るだけのことをする。わかることはアドバイスする。携帯電話くらい貸してあげてもいい。そのくらいはなんでもない。老人には老人の一日があり、仕事がある。当然ながら、そのことの方が強い。親切は無制限ではないはずだ。でもかろうじて、たまたまそれが無制限であるかのようにも見えるときにだけ、人は他人を「優しい」「いい人」と呼ぶのではないか。

それでも、だからこそこの老人は素晴らしい。「いい人」であり、彼のおかげでルーシーの居所がわかったのだ。いくら感謝しても足りないくらいなのに、発とうとするウェンディに、彼は餞別までわたす。

保健所の受付の女の表情と口調。犬が見つかるかはあなた次第です、毎日確認してください。その言葉の確かさ。冷たくもなければ温かくもない、誰もが他人だが、誰もが自分にわけあたえられた範囲内で誰かを援護できる、かもしれない。妙な正義感、妙な思い込み、妙な固執に囚われてなければ。

自動車修理屋から車の状態を聞かされてうなだれるウェンディ。それを見やりつつ、さあ場所をとるから早く決めてくれと迫る修理屋の店主。ここにも何ら嫌なものはない。仕方がない。それを判断し伝えるのが修理屋の仕事だ。

ラスト・シーンはまるで西部劇。ライカートにとっては、それこそが現実ということか。