マティスの「ヴァリエーション」と「プロセス」写真群を見ることの難しさは、それがつい、完成とか結末に向けて進みゆく過程のように考えてしまいがちなところにあるだろう。一連の物事が変化していくとき、それはどうしても「より良くなっていく」ことが想定されるだろうし、それこそが変化のモチベーションにもなるだろうから、そう思うのは当然のことだ。

しかし連続講座「未だ充分に語られていないマティスピカソについて」で取り上げられた「ピンクの裸婦」ヴァリエーションを観てもわかるように、それらは決して「じょじょに良くなっていく」わけではない。なんというか、過程全体の因果を説明できない。つまらない言い方を用いるなら、これはPDCAを回す取り組みのようなものではない。もちろん問題を見出し打開策を計画して実施した結果を確認はするだろうけど、それでスパイラル的に向上していくわけでは必ずしもない。

繰り返される改善の試みであるなら、十枚でなくて五枚のコストで出来ないのか?とか、最終的にこうなるなら途中はいらなかったのでは?とか、そういう話になる。しかしそういうことでないのは言うまでもない。

十枚の作品があるなら、九枚が途中経過で十枚目が完成品というわけではない。十枚すべて完成品であり、こうであったかもしれない十枚があるというだけだ。ただし前作に何らかの不足や不満を感じたから次作が生まれることになった。それも確かだ。因果と言うなら、そのことだけ因果関係は成立する。

前作の何をきっかけに、次作が試されたのか。今回の連続講座ではそのことが執拗かつ精緻に追いかけられたわけだが、それが全体の意図の説明でもなく、連作をつらぬいて目指されたことやテーマ性の発見とかでもない。単にそうなったというだけだ。植物の茎や葉の成長のしかたを観察するようなものか。その日の天候や日当たりの向きによって、葉や茎の伸びる方向や成長度合いは変わるけど、そこに意図や計画や目的はない。

それを前提として、それにしても「ピンクの裸婦」写真から思うのは、行き当たりばったり感もかなりすごいよなあ…ということだ(笑)。むしろそこをかなり意識してるのじゃないかとさえ思える。ある一連の流れとか過程のように見えてしまっては、むしろ台無しだろう。というか次の試みに移る時点で、前作は記憶のなかに押し込みつつ、目の前の画面にほぼゼロ状態から飛び込んでいくような感じじゃないのだろうか。そして自分に対して、よくぞここまでリミットを掛けずに、大胆極まりなく試せるものだと思う。