連続講座「未だ充分に語られていないマティスピカソについて」でのマティス「赤い部屋」分析を聞いて思ったこと。なぜこの絵から「すべてが流動しつつ静止していて」「見ているこちらの足元をすくわれ、知覚の根底を揺さぶられる」ような感じを受けるのか。この絵が観る人を、強い混乱をともなう歓喜へいざなうのはなぜか。

いったい、この赤は何か。これは色か。赤は室内を水のように覆いつくしているので、それはもはや三次元的な落ち着きどころを失った世界とも思えるのだけど、それにしてもテーブル上の果物たちは、どれもしっかりとテーブル上面を暗示するかのようで、果物こそが基盤となるテーブル上面を存在させているかのように配置され、しかしそれは黄色く輝く光の塊のようでもある。

見つける、見出す歓びと、見失う、消えてしまうことの歓び、失調、非統御、崩落の歓びでもある。

ひとつの平面上に異なる要素がそのまま配置されている、しかし異なる要素はそれぞれがばらばらに存在するわけではなく、非常に細かく周到に相互共鳴し響き合い、影響を与え合っている。

まずは絵画を観て、ある要素と要素が無関係ではないと感じるとき、観る者にとって、そこから絵画がはじまると言っていいだろうか。

左上の窓から外が見える。外の景色が、部屋の中の家具や小道具類と相似の位置関係をもつ。入れ子構造のようでもあり合わせ鏡的でもあるような、不気味な反復性、あるいは循環性。

テーブルがあり、テーブルクロスがあり、装飾模様がある。同じ模様は壁にもある。布はものの形を包み込むから、布の表面を彩る装飾は、形に沿ってゆがむ。しかしこのゆがみは、三次元遠近法的なゆがみのようでもあるし、別の理由によって生じたゆがみのようでもある。

壺状の装飾はもはや装飾ではなくて、それは自律した存在感を主張しはじめるようだ。立ち昇るかのような蔦状の装飾も、テーブルの形態をなぞるようにも見え、自律して勝手に伸びあがり生い茂ろうとするかのようでもある。

装飾の蔦がかたちづくる花瓶のような形と、花が活けてある実際の花瓶は、形態をもって響き合い、互いが互いを交換し合ってもかまわないようにも見える。実際の花瓶が亡霊のように巨大化したようにも見える。

右の女性は、テーブルに食い込むかのような、斜めの線からずり落ちるのを耐えているようにも感じられる。しかしそれでいて穏やかな、まるで眠りのような表情で花瓶に手を触れている。

彼女の前傾姿勢は、この混沌・混乱がこれ以上広がらないような歯止め、抑止の力のようでもある。

古谷さんは「この絵全体が、右の女性の眠りのなかで見ている夢のようでもある」と言う。それはかつて(2012年)企画展で「赤い部屋」が東京に来たとき、東京新聞に掲載された同作品に対して評された言葉でもある。かつて自分はこの評を、たいへん素晴らしいと思った。

それにしても「赤い部屋」を実際に観たのだったなあ…とも思うし、それがすでに十二年も前のこととはね…とも思う。

しかし絵というのは、なぜこのような、ひたすら冗長な、ひとつひとつの要素を数え上げて、もたもたと指摘を重ねていくような、非効率的な見方をしたくなるのか、また、そのような見方をする人の話を、興味深さを感じたまま、果てしなくいつまでも聞けてしまうのか。

それは、実際そのように見たからだ。すさまじいスピードで、一瞬で、それらを見ている。映画の二倍速再生どころではなく、絵画はむしろ自己制御不可能な速度で、自分の眼を通して受け取るしかない。その自らの速度感に驚き戸惑いながら観るのが、個々の絵画体験のはずで、今回の講座ではその個々の体験をできるだけ汎用的に共有するための、全員がわかる速度で再生分析する試みであっただろう。

複数人で絵を観るということがこんな風に可能な事なのだとあらためて思った。