三宅さんの日記で知った笹野真「手のひらたちの蜂起/法規」(いぬのせなか座)を入手する。きれいな装丁である。まずは一度通読した。後日はじめから再読するつもり。

一読したかぎり、まず身体から出ていく/戻ってくる感覚をもとに、その不確かさ、信用ならなさをもとに、自分/自分外との住み分け方、生じる境界を手探りで探る試み…のような印象だ。

最初から最後まで読むことで、ある個体感というのか、ある単独的な存在感が、かすかに立ち上がってくるような気配というのか、いや、あるいはそのような気配を感じたいと、その勝手な予測の正否をはっきりさせたいと、自分が思いながら読んでいたのかもしれないが。

ところで、ふだん詩をあまり読まないので、詩を読むための、何らかの事前準備をしたくなるというか、あらかじめ、自分自身のコンディションを、それに適した状態に整えたくなるところがある。車を運転する前にシートに身体の位置を合わせこむような仕草をしたくなる。

詩は、本一冊それ自体の存在感というか、パッケージ品としての凝縮力が強いように思えて、書物自体が一個の身体をもつようにも感じられるというか。だからたとえば非物質に変換し辛いというか、電子書籍化された詩の本というのは、あまり想像できない感じがする。

たとえば、詩集ではないけど、もし高橋 悠治「カフカ/夜の時間―メモ・ランダム」とか、中西夏之「大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」とかが突如として電子書籍化されたら、ものすごく違和感をおぼえる気がする。(以外にあっさり馴染むのかもしれないが)。