バスター・キートンはなぜ、ブルース・リージャッキー・チェンのようではないのか。

それはブルース・リージャッキー・チェンが、すでに映画という媒体をよくわかったうえで、そこに自分の身体をどのように挿入するべきかを、あらかじめ計画したからで、しかしバスター・キートンはそうではなかったからだ。

ブルース・リーにとって映画は、自分の「ジークンドー」を推し進めるための手段というか戦略であったと思うが、自身によって映画そのものを揺るがせようとは思っていなかっただろう。それはジャッキー・チェンも同様で、彼も自身が実際にそれをスタント無しでやるという外的事実を添えながら前代未聞のアクションシーンを成立させようとはしただろうが、記録元である映画自体への揺らぎを疑うようなことはなかっただろう。

なぜバスター・キートンはそのアクションによって、自身の身体の特異性、優位性を誇示しなかったのか。この奇跡的な場面を作り出しているのは、俺の肉体であるとなぜ主張しなかったのか。

それを個人内面に向けるかたちで推測しても意味はないだろうし、そもそも、そういう時代ではなかったということだろう。まだ映画そのものを誰もが今思われているようには思っていなかった。被写体の誰かが特権的に何かを主張する媒体だなんて、誰も思ってなかった。それはあくまでも運動だった。ある切れ目なき一連の動作、流れだった。そののっぴきならない迫真性で、そこに誰もが目を惹きつけられていた。

バスター・キートンはそのことにのみ過敏なまでに反応していた。そのことに自身の身体を完全に奉仕させた。