U-NEXTでケリー・ライカート「ショーイング・アップ」(2022年)を観る。オレゴン州にある美術系大学、その学生たちと、教員や教務系スタッフたちと、レジデンス制度で滞在してる作家と、近隣住民ならびに大学卒業後も住居兼アトリエを構えて制作を続ける若い作家たち。

たとえば、大きな工場のある町に暮らす人々ならば、家族の誰かがその工場で働いてるとか、工場周辺の食堂を営むとか、工場の空き地や廃材で子供の頃から遊んだとか、そんな風に場所の条件の下で生活が立ち上がって、それがその地域の歴史みたいになり、その人たちの生の記憶ともなるだろう。

同様に、美術系大学の近隣に住む人々にとってなら、制作をする人や、それに関わる人々との関わりは、そうではない地域とくらべて、相互に接する機会も多く、美術や美術作家やそれに関連する人々との、より密接な関係をもつ機会も大いにありうるだろう。

おそらくアメリカにも、有名な美術大学とそうでもない大学があり、優秀な学生とそうでもない学生がおり、何かに秀でていて上手くやってる人と、そうでもない人がいるだろう。そして、そういう営みの内側と外側があることだろう。

その一方で、家族の問題や人間関係に悩む人は少なくないだろう、これは場所や条件を問わず、人が人の集まる場所に生きる以上、避けられないことだろう。

他人の悩みは私の悩みではないというか、私の悩みを完全に他人が理解する(というか悩む)ことはない。主人公は大学で働きながら作品の制作を続けているが、始終イライラしていて浮かぬ顔だ。この映画を観ることは、彼女の憂い顔をひたすら見続けることでもあるほどなのだが、そんな彼女の表情が常にすぐれない理由はたぶん複数ある。家主でもあり友人でもありアーティストのジョーが、いつまで経っても湯沸かし器を修理してくれないことや、父親の生活のことや、最近の兄の状態ことや、もちろん自分の制作に対する不安や逡巡、迫りくる個展初日までのプレッシャー、まだほかにもあるかもしれない。

彼女のイラつき、彼女の悩みは、彼女だけのものであり、周囲の人間の悩みではない。周囲の人間もそれぞれ何かに悩んではいるかもしれないが、それとこれとは別だ。

だから想像を広げてみれば、たとえば美術大学の町に暮らす人々の生活や関心や悩みと、たとえば工場の町に暮らす人々の生活や関心や悩みは、やはりどこか違うのかもしれない。オレゴン州の美術系大学の近隣に暮らす、個展を間近に控えた作家がイラついた日々を送ってるのと同じように、どこかの町でも誰かが何かを悩んでいるのかもしれない。

「芸術一家」という存在も、美術系大学の近隣に暮らす人々にとっては、何ら珍しくはないのかもしれない。陶芸作家だったけど今は謎の知人夫婦とつるんでる父、大学で働く母、かつては制作者だったのに今は絶不調な感じの長男。彼らの関係は、ずいぶんとぎくしゃくしているようだが、でもどんな家族も、程度の差はあれだいたいこんなものかもしれない、とも言えるか。

人間関係など飛び越えて、家族であることもいったん忘れて、作品の作り手と受け手として対等に対話できることが、「芸術一家」の特権ではなかったか、とも思う。父が娘の作品について感想を言うとき、それはお世辞や社交辞令では済まない、というか、短くポツリとつぶやく感想のようなものだとしても、そうではない言葉を言う、それはそういうものだ、素晴らしいことじゃないか、そういう考えもあるかもしれない。

ただそれはそれとして、やはり家族としての悩みは尽きない。こればかりはどうしようもない。オープニングパーティーでの父親の振る舞い…酒も入ってるからなおさら、ギャラリーのうっとおしい客代表みたいになってる父と、あからさまに苛立つ母と、周囲に我関せずの兄と、不機嫌の絶頂みたいな顔をしてる主人公の娘。

にも関わらず、くりかえすけど誰かの作品について誰かが感想を言うとき、お世辞や社交辞令ではない言葉を交わせるということ。これは美術大学の町に暮らす人々が持ち得る特権のひとつではないかと。もちろんそれは、別に暮らす場所も出自も問わない、どんな条件の両者であれ大いに言葉を交わせば良いのだけれど、でも彼らはそれに慣れ親しみながら生活を営むことが、他所の環境に暮らす人々と較べてより容易ではないか。

主人公と友人ジョーの関係はけっして良好ではないが、嫌悪し合ってるわけでもない。一応大人の態度を互いに維持してる感じだ。制作してる作品に、お互い強い関心や興味を感じているわけでもないだろう。アーティストとしての評価が高いのは、新進アーティストとして目下クローズアップされているジョーだろうけど、それはそれだ。

そのような興味や関心の範疇外を前提として、彼女らは互いの作品に対して何かを言うし、誰かがあなたの作品についてこう言っていたとも伝える。それはきわめて事務的な伝達であり、同じ仕事をする者同士の情報交換に近い。このようにしてアーティストが必要に応じて情報共有しながら各自生活を営んでいること、そのような生活もまた、美術大学の町に暮らす人々ならではの様式とは言えるかもしれない。

でも環境が与えてくれる特権とか、アクセスがより容易であることは、別にいいことでも悪いことでもなくて、その条件だからそうと言うだけでもある。もちろん、たとえば東京と田舎の違いを、ただの条件の違いと言い切ることはできないが。

しかしオレゴン州にも、もちろん日本にも、ヨーロッパ、中国にも、それぞれの場所で、彼女らのような人が暮らしているということ。始終むすっとした彼女の不機嫌顔が、そんな確固たる現実、実在する誰かにとっての、時間の厚みを示しているのは確かだ。

ラストは一挙に雲が晴れたような、ぽーんと見晴らしの良い場所にいきなり投げ出された。気持ちよくて、素晴らしかった。