卑怯

昨日、ブルース・リー宮本武蔵の話が出てきて、それで坂口安吾が「青春論」に書いた宮本武蔵のいくつかの逸話を若い頃読んだのを思い出した。

「卑怯者」を蔑み、軽蔑したい心があるとして、しかしなにしろ「負けたら死ぬ」という条件下で生きる剣術者が、いかに自らの剣術を磨いていくのかを考えるにあたり、要するに、つまりは勝つためなら、何でもするわけだ。たぶん宮本武蔵は「おまえそれは卑怯だ」とか言われても、おそらくかまわなかった。そんな言葉の言い終わらぬうちに、相手の頭上に剣を打ち下ろしたのだろう。

何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用の出来るものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、又どんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。

 武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
 之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。

しかし、これらは極端であり、死ぬか生きるかの極限状況下だから、たしかに卑怯な私を思い浮かべる余地がないけど、これは肉食動物の生と変わらないわけで、こんな世界では、まさに生きられない。

逆に、強制収容所のような場所ならば、肉食動物ではなく、むしろ(肉でもある)人間の生の極限が展開される。それは目前の他者の苦痛に出会った私が、即時自らを明け渡すような世界に生きるということだ(レヴィナス?)。

もしかすると一日に一回かそれ以上、ナチス党の幹部とかその下っ端の連中のことを思い浮かべる。もちろん想像で。連中らの構成していた組織を思い浮かべ、彼らの日々の業務を思い浮かべる。なぜかはわからない。自分の日々と彼らの日々との違いを考えたいのかもしれない。あるいはまた別のことゆえかもしれない。

いずれにせよ限界状況において「卑怯」は消滅する。「卑怯」もはびこる余地のある世界であることは重要だ。その上で「卑怯」を退けるにはどうするか。