MOVIX亀有で三宅唱「夜明けのすべて」(2024年)を観る。光石研が社長の、あの会社の在りよう。社長の人柄。従業員の態度と、働き方。(ちょっと青山真治サッド ヴァケイション」を思い出させるような)まるで厚生施設のようであり、社長もまた、過去の癒えない傷を心に抱えていて、松村北斗を社員として受け入れるきっかけになったのは松村北斗の前職の上司からの紹介で、彼もやはりその自助グループの参加者である。主要な登場人物の多くが「無傷」ではなく、無傷かもしれない人でも、傷を負った人に対して一定の理解がある、あの会社が従業員や関係者らを囲う安全地帯、アジールのような場である。

だからこの映画を観ていると、そのような優しい場の「外部」がいつ出てくるのか、最初は緊張感をおぼえるのだが、それは映画がはじまって最初の十分かそこらで、かなり丁寧に上白石萌音のこれまでの経緯と心身の状態がモノローグで説明されるところでおおむね終わっており、その後も松村北斗上白石萌音が発作を起こす場面はあるものの、そのことに過度に引っ張られることなく映画は進む。

たいへん上品で、丁寧で繊細で、過不足なく、観るものにそっと差し出されたかのような作品だと思う。その手つきがやや優しすぎて、きれいごと…という言葉をさすがに使いたくはないけど、あまりにも気を使い過ぎな、(観る)人に対して、優し過ぎに感じられるほどではある。

あの会社を経営していくこと。「何とか会社を潰さないでやっていくこと」と、社長の光石研は言う。彼はずいぶんのんびりしていて、和やかで穏やかで、ときどき鉢植えに水を上げたりして、まるで隠居老人みたいな、仙人みたいな感じで、(でも個人的な過去の傷はまだ癒えてなくて)、きっとあれでも現役経営者なのだろうし、のっぴきならない会社事業の存続を支えているはずなのだろうなと、その詳細は映画に描かれてないけど、そこは想像するしかないのだろうなと、なにしろ彼らの内側と外側をつなぐ一番ヘヴィーな「非武装帯域」を支えているのが、この社長のはずだろうからな…とか思いながら、ことの成り行きを観ていた。このアジールの「外側」は最後まで描かれない映画なのだな、と中程あたりでわかったけど、松村北斗が最後、弟の位牌に酒を注ぐのは、彼もこの組織を支える一員になることの決意を示すと見ても良いのだろう。

パニック障害持ちの松村北斗は、自身の問題はともかく、上白石萌音の傍らにいることで彼女のリスクを軽減させることが自分に可能だと気づいて、そこにある種の手応えを感じる。自分の必要性、役割の自覚のようなものを直感し、それをきっかけに、自分の生に対して歯車の噛み合いを実感し始めるのが、おおよそここからである。

ただし彼らの関係を、男女の従来路線へ進ませず、一般的解釈のネタとして奉仕させることもなく、ただ彼と彼女の考えや選択のまま置きっぱなしにすること、そのような考えや判断や自覚の「偶然」として投げ出すこと。そのようにしか人は自分自身を漕いで進めることができないということ。松村北斗が自身ではっきりと言うように、男と女に友情が成り立つかどうか、そんな設問には意味がない。だから上白石萌音が飄々と転職活動を進め、退職を告げると社長はそれを寿ぎ、彼女の退職を知った松村北斗はとくに驚くでもなく「へーそうなんだ」くらいの反応しか示さない。彼女の転職を彼が知ったらどうなるのか…映画を観る者のその期待と不安は見事にスカされる。でもそれはそれだ。これは、そのことだけを言ってる映画だという解釈も可能だ。

(それにしても松村北斗の彼女の、なんとも可哀そうな扱い…。こんな登場人物もいる。これぞ現実か…。)

冬の映画、正月前後の季節を舞台とした映画でもある。窓から入ってくる光をとらえただけの映画だと云うことも可能だ。できれば夜のままが良くて、いっそこのまま、いつまでも星を見ていたいけど、夜明けは来るし、人々は夜明けに希望を見る生物であり、ましてこの映画はほとんど西日の明るさにつつまれていると言っても良いのだ。

教育商材としての移動プラネタリウムを販売する会社なのだ。だから冬の星座についての話がいっぱい出てくる。天体の話。すべてが動く話。方向を指し示北極星さえ、数万年で星が交替するという話。それが朗読、あるいは録音音声としてかなり長めに示され、高いところから見下ろされた街並みが、あたかも天体のように示される。冬の大三角形。その時期の夜空が、たしかに一年でもっともうつくしいのだろう。じっさいの夜空は出てこなくて、天体の話、数百年あるいは数万年にもわたる宇宙の話、移動と軌道周回の話が、かなりたっぷりと語られる。(PMSを患う上白石萌音に「周期」の話を重ねたくなるのは、あまりにもわかりやすくてどうかとも思うのだけど。)

そしてやはり、これは坂道の映画なのだろな…結局、感想を書くなら、そこを書かなければいけないのか。上白石萌音の今住んでる場所にほど近い、坂道とその向うの遠景が示されたとき、ここまで映画の始まりから十分くらい掛かっただろうか。この坂道のショットに、おおーっとなる。今からこの話が、ようやくはじまるのだ…と感じさせられたあの坂道に、彼がやってくる後半の場面。自転車で下り坂を降りて、そのふもとで自転車を降りる。自転車で登るにはあまりにも急な登坂なのだ。かたわらを子供を後ろに乗せたお母さんがこともなげに自転車で坂を上っていく。あれは電動アシスト付きの自転車なのだ。この坂だとあれは必須だな。でも彼の自転車はそうではない。

ほんとうに何もなくて、忘れ物を届けるだけ、いつかみたいに、ドアに引っ掛けて、そのまま帰っちゃうんだなと、思わず笑ってしまう。でもきっとそのあとメールで「会社の皆さんに、鯛焼き買っていって配ってね」とか、彼女からメッセージされたのだろう。

二人が同じ部屋にいる場面はどれも素晴らしいのだが、やはり散髪する場面がとびぬけて素晴らしく、あとポテトチップスの「逆さ食い」も素晴らしく、ほかにも…だが、そのような場面がいっさい「期待をもたせる」感じではないのだな。あくまでも坂道。彼女と同じく、彼女の自転車で、彼もこの坂を下って登った、それだけが重要なのだなと。