RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾vol.15」へ。

将棋ルールを習得して一年かそこらで、アマチュア将棋のそこそこのランクに達してしまうとか、常人からすると考えられないくらい高い習得能力をもつ人はごくまれにいて、スポーツ競技をはじめたばかりのなかにも、おそらくそのような人はいる。

しかし将棋のA級棋士やそのさらに最上位の棋士の能力は、比較にならないくらい桁外れに高い能力であるし、プロスポーツのトップクラスの選手もそうだ。

人間の能力差というのはまことに大きく、とくに将棋やスポーツ競技のような定めたルール下で能力を発揮し合う形式においてはその差が如実にあらわれる。というよりも差が大きすぎてほとんど比較の意味がないくらいだ。

そして一流と呼ばれる棋士や選手の力は、もはや学習能力の高さとはまったく違う質のものであるだろう。たぶん学習能力の高さ較べであればまだ比較の意味があるけど、それとこれとはおそらく別なのだ。

ところで芸術はどうか。芸術にも「一流」は歴然としてあり、その一方で学習能力の高さにおいてすぐれたものもある。芸術が学習能力の高さ較べになってしまったらつまらないが、社会における芸術のありようとして、たとえば新人賞とかコンテストの形式が社会の側から要請されとき、それはどうしても学習能力の競争になりがちで、しかもなぜか「すぐれた作品」が一次選考で落ちてしまったり「そうでもない作品」が選ばれたりもする。少なくとも「一流」にはいたらない作品について、人の考え方はさまざまだ。

これは個人的な思いだけど、社会から要請されて引っ張り出された芸術は、本来の良さを発揮できずに、どこかみすぼらしくなさけなく見える。似合わない役割を無理に担って、作品の方も観る方も一緒に無理してるようで、楽しそうではなく、どこか気の毒ですらある。

芸術はだいたい(非物理的な意味で)人里から離れたところで、こことは別のどこか上の空を向いた、それだけのものと自分などは思うのだが、しかし社会から要請されてこそ芸術だと考える人もいるし、人それぞれだ。