Amazon Primeで、アニエス・ヴァルダ「ダゲール街の人々」(1975年)を観る。アニエス・ヴァルダ自身が住人でもあったパリ14区"ダゲール街"で商売を営む人々をカメラがとらえる。日常の仕草、香水の調合とか、洋服の仕立てとか、肉を切るとか、パンを焼くとか、運転教習とか、それらの仕事があり、仕事に従事する人々がいる。

訪れた客に応対し、用件を聞き、所望の商品を差し出し、包装紙に包む。代金を伝えて、金を受け取り、釣りを渡す。彼らの仕事、手つき、身のこなし、ふるまいは、長年の経験と慣れによって、盤石でゆるぎないものに見える。

その日常的な行為ひとつひとつが、手品師の興行イベントでくり出される様々な出し物(コップの水、炎、刃物、催眠術…)と絡み合うように示されると、日常に則した人間の行為が、不思議な異化効果によって意味の行く先を失い、ただの無意味さ、不条理な滑稽さへと、漂い出すようも見えたりもする。

しかしそれも束の間のことで、彼らはたしかにここまで、地に足をつけて生活を営んできたはずで、フランスの田舎に生まれ、戦前からこの地へやって来て商売を始め、過去の記憶を積み重ねてきたはずで、そんな夫婦二人がかつて出会ったときの思い出を、楽しそうに話しもする。誰もがこれまでの人生を自らだきしめるようにして生きている。

最後の場面で彼らに対して最後に投げかけられる問いは、夢に関するものだ。彼らひとりひとりもまた夢を見るということ、それによって彼らが「ダゲール街の人々」でありながら、個別にひとりひとりであることが静かに示される。それはどこかもの悲しくもある。

そんな本作品に"主人公"がいるとしたら、それは香水屋の年老いた奥さんではないか。おそらく彼女こそは自身が自身であることのかけがえのなさを強く印象つける、そのようにカメラは彼女をとらえる。

彼女の表情と店先に佇む姿、ご主人がお客さんの対応をしてるあいだ、ほとんど心ここにあらずのように、ぼーっと店内の様子を見ている。客が出ていくときは、短い別れの挨拶をする。夕暮れのひととき、ふいに店の外へ出て行こうとして、ご主人に咎められたりもする。たぶんこの映画を観終わった人の記憶にもっとも色濃く残るのは彼女の表情だろう。

幸福でも不幸でもなく楽しさでも悲しみでも怒りでも諦めでもない。ただそこにいる人、そのような人物をカメラが撮影し、こうして映画で観るとは、なんだろうかと思う。共感ではなくてむしろ弾き返される。にもかかわらず、それを好ましく思う。

私と意味を共有しない誰かの気配、私をけっして知ることのない他人というもの。あの時と場所に、確実に「この私」(であることの謎を含みこんで存在する誰か)が、生きていたのだということ。