青空文庫芥川龍之介の「羅生門」を読んだ。冒頭、下人は決めあぐねている。このままだとおそらく餓死する。生きるためには盗みや悪事も働かねばならず、いよいよその覚悟を決めねばならないが、しかしその勇気がない。

羅生門の下には死体がたくさん積み置かれていて、見るとその屍から髪を切り取っているひとりの老婆がいる。下人がこの老婆を捕らえたそのとき、彼の心の中には、一瞬にせよその醜い悪行を憎み嫌う義の感情がみなぎった。

しかし下人が元々、義への思い厚く悪を憎悪し嫌悪するような人間だったということではなく、老婆が死体の髪を盗み取っている情景を見て、その感情はそこから導き出されたものだ。いわば与えられた情景に対して外から注ぎ込まれた何かである。それはこのような器ならこのような液体が注ぎ込まれるはずだという既知感によるものだろうか。

老婆は下人に向かって言う。たしかに死体の髪を取るのは悪かもしれないが、この死体も生前はやはり悪事に身を染めていた。生きるためには誰もが手段を択ばず何らかの悪事にも手を染めないわけにはいかない。だからこの屍となった女も、私の悪事を恨むことはないはずだと。

下人は、老婆の話を聞いているようでそうでもない。ただ自分の顔にあるニキビを無意識に指で触っている。ただそうしているうちに、また何らかの感情におそわれる。下人は再び老婆に手をかけ、その衣服をはぎ取る。「ならば俺がお前の衣服を盗んでもお前は俺を恨まないだろうな。俺だって餓死するかもしれぬ身の上なのだ。」と言い捨てて、下人はその場を去る。

このとき下人は最初のようにある情景を見て、その影響で何かの力を得たわけではない。悪事を見てそれを阻止したくなったわけではなく、むしろ逆である。

下人は老婆の話の始終、顔のニキビをぼんやりと気にしていた。おそらく下人は老婆の話を、どこかで聞いたような話だと思った。悪事の器に義の心を注ぎ込みたくなるのと、悪事が悪事のかたちをしている理由とは、ひとまず無関係であるが、共通するのはどちらもあらかじめ規定の法則に支えられているように感じられることだ。

どこかで聞いたような理由が、結局は人をのっぴきならない状況に追い込み、悪事をなすことも許容されるのだと、そのような上位視点で考えたわけではおそらくない。ただ下人の中にあらわれた変化として、そのとき彼の心のうちから、それまでおびえていたはずの餓死という言葉が、意識からほぼ消えていたことがある。

自分の生命を追い立る何か、けっして逆らえず従わざるを得ない強力なものの威圧感をいつの間にか忘れた。同時に、それに屈した後で湧き出る手垢にまみれた言い訳からの自由を手にできるかもしれない予感を得た。

自分を悪に駆り立てずにはおかないのっぴきならなさが消えたあと、あらためて彼は老婆の衣服をはぎとる。これは彼が自ら選んだ彼自身による悪の行為で、去り際に言い訳を言ったがそれはうそで、下人のふるまいは己が餓死の危機を回避するためのやむおえぬ行為ではなく、もっとストレートに自らの身体をもって追及され、もっと研ぎ澄まされるべき仕事としての悪であるはずだ。下人はようやく当初の逡巡から解放され、自らの行く先を選んだ。

外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない。