ジャン=リュック・ゴダール・アンヌ=マリー・ミエヴィル「ヒア&ゼア・こことよそ」(1976年)を観る。かつて別のタイトルで作られた作品が別の姿となり、今こうしてここにあるということを、映画自身が語るのだが、映画の内容というか、その中身、実体を語る「語り手」は、「こことよそ」においてはひどく不安定で未定着なまま、ふらふらとし続けている。その声や語りの意志はどうしても映像と結びつかず、「言いたいこと」が映画にぴったりと寄り添うことができない。したがって映画は、最初から最後まで荒涼とした地肌を隠すことなく、体裁の悪さをそのままに進行する。

こことよそとは何か。此方と彼方、この私と、この私ではないもの。それは映像と音、フランスとパレスチナであるとも、映画のなかに語る何かが、そう言いたげでもある。しかし、それもどうなのだろうか。かつてナチス絶滅収容所で、極限状況において心身喪失の囚人らが「回教徒」と呼ばれた過去が示される。彼方における対立が、名指す者と名指される者とが、過去に重なって入れ子状態になる。

横たわる死体、スターリンヒットラーニクソンキッシンジャーの、遺体の凄惨ささえも、それらの宙に舞う紙屑のようなイメージ。並列された映像。"ビデオ時代"とは、複数の映像が並列されうることなのだろう。もはや私たちは、提示されたそれだけを見るわけではない。いくつもの映像は没入を促すことのないただの光源に過ぎない。

武装したパレスチナ解放戦線の男たちが、車座になって話をしている。その場所と時間。パリの交差点をシトロエンが走る。テレビがあり、ソファーがあり、家族らが集う。食卓を囲み、揃ってテレビを見る。音が大きすぎると、父親が娘に言う。それに対して母親が何か言って、父親は強い口調で失職は俺のせいじゃないだろうと言い返す。

ともあれ本作では、ひとまずもっとも警戒すべき仮想敵を「音」に想定しているようだ。(音とは声でもあり、音声が誘発する聞き間違えられた言葉をも含むだろうか。)

提示された映像に、ある音が満遍なく覆いかぶされることで、そのイメージは定着し、行き来は止まり、意味と方向が確定付けられる。その背後に見過ごされるおびただしい何かがあって、しかしそれが焦点を結ばない混沌であるのを、見ずに過ごすことが許容される。そして暴力は、イメージの壁の向こうの、誰の目も届かない場所で繰り返されるのか。