Amazon Prime川島雄三青べか物語」(1962年)を観る。60年代初頭、空撮で東京湾上空をカメラが見下ろしつつ移動し、そして江戸川を見やりながら千葉県方面へ。埋立工事の進む海の景色、やがて遠景まで際限なく広がる田園と、細く長く伸びる河面におびただしい数の小舟が浮かぶ。圧巻のオープニング。こんな景色こそ、もはや失われて二度と見ることのできないもののはずだ。

「浦粕」という町にやって来て、ただふらふら散歩してる小説家がいる。宿に部屋を借りて、原稿用紙を準備して、小説を書こうとはしているようだが、心ここにあらずか、あてもなく散歩したり、子供にからかわれたり、居酒屋で奢らされて、からかい気味に「先生」と呼ばれたりしているうちに、村の人たちにも顔が知られていく。ちょっと油断ならないけど気の良さげな老人から、青べかと呼ばれる古ぼけた小舟を買わされて、その舟で海の浅瀬に出て、波に揺られながら昼寝をしてる。

小説家という存在は、今はともかく、昔はまさにそんな感じのイメージだったか。ふらりと訪れた旅先で、とくに目的も予定も決まってなくて、ただ何もせず、無為に遊んで暮らして、そこで知り合った人々と適当な距離間で交友して、そのうちふと、その場所を立ち去る。そういう伝統というのか、そういう小説は、古今東西たくさんあるだろう。

この映画は山本周五郎の同名作品が原作で、原作を僕は未読だが、つまりこれは小説「青べか物語」に描かれた世界の、映画的再構成でもあるけど、それと同時に、小説内主人公である小説家の姿をそのまま対象にして描かれた映画なのだなと思う。

主人公がたいがい何もせず、行動の影響を最小限にして、ひたすら観察者としてだけ存在していて、周囲から幾つものエピソードが次々と繰り出されていく、映画を観る我々はそれらを眺めながら、結局は始終、主人公である森繁久彌の表情や様子を見ている。彼が体験した出来事の集積が、これらすべてなのだと思っている。

それにしても、こんな無口でぼんやりしていて、黙ってるだけなのに周囲と打ち解けてるような人物としての森繁久彌を、はじめてみる。モノローグとセリフがきっちりと役割分けされていて、人との対話にも合間合間にモノローグが挟まるので、いっそう森繁久彌の主観的世界であることが強調される。

舟の上で読書をしてるうちに眠ってしまい、目覚めたら干潮で泥の上に船がぽつんと置き去りになっていたなんて、そんな経験まるで夢のようだ。そんな日常自体がほんとうに、もうけっして手の届かない、かなしくなるほど美しい日々に見えてしまう。旅先でただふらふらと遊んで、そこで得た経験や体験をお土産にして、気が済んだら荷物をまとめて、お土産以外のぜんぶを置き去りにして、旅立つことのできる特権的な人こそが小説家で、その期待を背負っているからこそ、彼はあてもなくふらふらしてるのだろう。

「浦粕」という町は虚構で、しかし60年代半ばまで、このような景色は実在したことだろう。また、このように旅行者が現地と人々と交友し混ざり合う、あるいは、適度な距離間をもって一時的に共存することもやはり虚構だろう。これは小説家がたびたび用いてきた虚構形式のひとつだろう。ありえないことばかりで構成されているから、余計にそれへ焦がれる思いをかきたてられるのだろう。