Amazon Prime川島雄三「喜劇 とんかつ一代」(1963年)を観る。冒頭から、あれは上野の不忍の池、そして弁天堂ではないか。そして仲町通り、池之端湯島天神、上野精養軒ではないか。ついロケ撮影された当時の上野の景色にばかり目が行ってしまう。

本作のフランキー堺は、すごい役者がすごくはりきってるのはわかるけど、それがかえって痛々しいような、やけにドタバタと力いっぱい飛び跳ねているのが埃っぽくて騒々しいだけみたいな、それを言ったら三木のり平もかなり酷いし、森繁もそうかもしれないが、やはりA級戦犯フランキー堺だろうと思う。団れい子という人はどの映画でもだいたい似たような女性を演じるけど、本作でのフランキー堺の相手は大変だっただろうなと思った。(精養軒ではなく)精龍軒のフレンチレストランのシェフを演じる加藤大介は貫禄十分で、こういう偉そうなおっさんをやっても、見事にサマになるのだな。

フランキー堺はふらふらと遊び人風な金持ちボンボン風な役柄だが、というよりはやはり当時のクレージー映画的なものが意識されてはいないか。働く男としてなんとなくいいかげんで調子良くて軽薄みたいな、そういうキャラクターとして造形されたのだろうか。ちょっと何が狙いで何を求めているのかよくわからないなかなか不思議な人物になってしまった感じだ。恋人である団れい子の自信たっぷりな態度と対照的に見せたいのかそうでもないのか。というか、そんなことがどうでもよくなってしまうくらい益田喜頓の娘役の横山道代の大騒ぎには狂気を感じた。コメディは時代が変わると、じつに奇怪で不可解なものにみえる。

推測だけどこれは当時の上野の商工会とかが関係して、上野のとんかつをもっと世間に知らしめようとの意図で企画された作品だろうか。そうでもなければ、冒頭の弁天堂での法事「豚供養」(死んだ豚の供養)というかなりレアな法事が紹介されることもないだろうし、山茶花究が扮する「欧米のコンクールでいくつも受賞している腕ききの屠殺人」というさらにレアな職業の人物が用意されることもないだろうし。いや、豚を供養する法事など実在しないし、屠殺の世界コンクールなど実在しない、それはギャグ的虚構だ、と言うなら、そうですかすいません…と言うしかないのだけど。

団れい子は上野のれん会の事務員役だったけど、この映画がじっさいに上野のれん会の関わりから作られていると見て良いのだろう。ご丁寧に映画監督と脚本家が事務所へやって来て、のれん会の会長らと打合せをする場面さえあるのだ。あと上野動物園園長として、本物の園長が出演していたりもする。

話はじつに他愛もなくて、他に何をどうこう言う事もないのだが、誰もが誰かの親類や遠縁で、それがギャグでもあり、最初はわかりにくいけど映画を観てるうちに見てる方も相関図がわかってくる。要するに姉妹の各嫁ぎ先でつながった親類の枠内で、結婚だの仕事の役割や采配だのをどうしていこうかという古典的なものだ。しかしぱっぱと手際よく進行していくスピード感は、やはりいかにも川島雄三的と言えるか。