とつぜん、得体のしれない道具を手渡される。何に使うのか、何が出来るか、まったくわからない。とりあえず触ってみる。可動部分を動かしてみたり、凸部を押してみたりする。すると何らかの状態変化が起こり、それを繰り返しているうちに、何に使えるものかがおぼろげにわかってくる。ここを押すと光るので照明として使えるとか、ここを引っ張るとラジオの音声が聴こえてくるとか、いくつかの用途を知ることができた。もちろん全容はわからないし、他にも出来ることがあるのかもしれないが、とりあえず探しあてた機能をくりかえし使うことはできる。それによって照明を得たりラジオで情報を得たりできることを知る。そんな風にして、手探りでじょじょにその道具を使う。

自らの身体もまさにそのようなもので、私たちははじめから、この身体をもってこの世界に存在するが、事前にその取扱説明書を見せてもらったわけではない。与えられたそれをまさに手探りして、知った範囲だけで知り、それだけのことを必要に応じて使っている。
さすがに自らの身体機能のうちあらかたはすでに利用したと思いたいが、しかし身体の全容が完全にわかっているとは言えない。使えていると思っていたけど実は使えていなかった、そんな気付きをどれだけ多く得られるのかによって、可能性は大幅に変わってくるもので、だから新機能を発見する可能性は少ないけど、既存機能を向上させる余地は大いにあるような道具が身体であるとも言える。

そして故障、いわば老朽化や病気化を自らで検知することが、非常に難しくもある(外科的な処置はそれが効果的なのか否か自分の身体をもって感じ納得することができなくて、あくまでも「客観的に」身体を治療する。その結果を私は事後的に知るしかない)。

これは運動や楽器演奏などの身体能力についての話ではなくて、おそらく読書とか思考においてもそうだ。思考もつまりは身体的フィードバック無しには前に進まないもので、それは具体的部位ではないけれども身体に属ずる何かが返してくれる納得感を、我々は「理解」とか「知った」とか、認識しているのではないか。

というか「出来るようになった」のはいつも身体のはずで、我々は私とは別の場所で、いつも外的にある奇妙な道具の様子を見て、それがあたかも我がことのように、ときには「出来た」と感じているのか。

などと、河本英夫「飽きる力」を読みながら考えていた。