DVDで川島雄三「貸間あり」(1959年)を観る。とにかく、すべての人物はじたばたと大騒ぎし、右往左往し、すべての鳴り物は音を立てる。あらゆる要素を詰め込めるだけ詰め込んで、電源を切らないかぎりいつまでも鳴り響き続ける自動楽器のような映画だった。これはこれで、ここまでやるのはすごいというか、見ごたえはあると思った。

また当時の集合住宅に設定された舞台の面白さというか、日本家屋の各間や離れの間にばらばらに住人たちが暮らしていて、ほとんど壁一枚、障子一枚の仕切りしかない、物音も筒抜けの、開いた裏口や開け放された窓からお互いの姿が丸見えで、中心にある広間に住人全部が集まることもある、そのような外と内の、昔ながらの曖昧さ、あるいは境界の強引な瓦解の面白さもある。

貸間の管理人で、才人で、何でも屋でもあるフランキー堺と、個性豊かな住人らのキャラクターによって、次から次へとギャグ的エピソードが連なっていくのだけど、こういう感じとは、たとえばその後の少年/青年漫画などに引き継がれて、学園ものとか仲間うちの関係をもとに、おかしな人物ばかりが織り成すギャグコンテンツとして、さまざまに発展していったものじゃないかな、などと思いながら観ていた。

僕はそういった漫画などのコンテンツをあまりよく知らないので、大御所タイトルしか思い浮かばないのだが、それこそ「めぞん一刻」とか、ああいった集合住宅ものを思い浮かべたくはなる。というか、画面を奪い合うように入り乱れるわけのわからない登場人物たちの姿に、つい高橋留美子的なものを思い浮かべてしまった。

わりとあっさり乙羽信子を自殺させてしまったり、そのへんの割り切り方もすごい。一応話の中心にあるはずのフランキー堺淡島千景の恋愛の行方も何ら結実されないまま映画自体は終わってしまう。庶民性とか人情味に回収する気などほとんど無いようで、ドライで空虚な空騒ぎ的笑いが、テンポよく畳み込まれることで得られるだけの成果が、目指されたのだろうと思う。