自宅から徒歩数分のところにある整形外科を訪れる。数年前に開業したらしい、まだ新しい建物の入口をのぞくと、朝九時だというのに待合室には座る隙間もないほどたくさんの人が。受付のスタッフらは忙しさで殺気立った雰囲気である。前の通りは歩行者もまばらで静かな朝だと言うのに、そのギャップにおどろく。

診察の結果、五十肩ではなくて頚椎のどこかの炎症による右肩から上腕にかけての神経痛とのこと。なるほど、それなら合点が行くというか、色々な辻褄が合うような気もしたし、そのための薬を服用して様子を見る方法にも納得である。そんな、もっともらしい説明を受けて、自分なりに理由を理解したと思うだけで、この苦痛と不快さを耐え忍ぶだけの何かを得たような気になるのが不思議でもある。耐える力というよりも、目的とゴールを与えられたよろこびということか。

人間なんて弱いもので、得体のしれない苦痛や悲しみには、何らかの「言葉」が与えられることを望む。鼻先のニンジンと言ったら言葉が悪いけど、それなしでは耐えられないし、とくに病気を患った者にとって、その病名と原因と対処方法を示されることは、それが場合によっては心の支えとなり、生きる目的にもなりうる……。

薬の服用と週一の診察とリハビリでしばらく治療を続けることになる。二階はリハビリ施設になっていて、ベッドに横たわって施術してもらう。しかし印象としては、寝そべって患部を適当にさすられながら雑談してるだけで、これ正直意味あるのかと感じる二十分前後。まあ、まずは病院側の言う通りにしておこう。

で、帰宅後ひとしきり考える。今夜開催の古谷利裕連続講座の会場へこれから向かうか否か。無理すれば、行けないことは無いのじゃないか。というか行きたい。しかしこの体調であの場所に長く座っているのを想像すると、なかなか厳しいのではないかと、逡巡しているうちに出発予定時刻となり、妻とも協議の上やむなく自宅待機を決断した。無念だが後日展開されるであろうアーカイブ映像を待ちたい。