めずらしく予定がぎっしりだ。午前中は診察といつもながら効果あるのか微妙なリハビリ。それが終わったら乃木坂へ行って国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」を見て、14時から同館3階講堂で対談:岡﨑乾二郎×米田尚輝「アネムネーシス(想い起す)のマティス」を聴講。それが終わったら巣鴨へ行って、17時からRYOZAN PARK 巣鴨にて大岩雄典トークマイケル・フリードとグレアム・ハーマン――芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」を聴講。

終わったのは21時半だったか。さすがにぐったりした。明らかに詰め込み過ぎで最初からオーバーフローするのは目に見えていたのだけど、まあ今日一日でたくさんの課題をもらったのだと思って、出来るだけここに書き記しておきたい。とはいえすでに記憶の怪しくなった箇所もある。

マティス展については、昨年の展覧会とはまた違った傾向のものが多くて(ニースのマティス美術館所蔵品が中心)、初期作品からこんなの見たことないぞと思うものも多くて見ごたえあった、が、全然時間が足りず、半分くらいしか観られなかったので、会期中に再訪しなければならない。少なくとも「ブルー・ヌード」の前に、ひとまず納得の行くまで立たねばならぬ。

マティスの作品の何を見ているかが、その人が絵というものを前に何を見てるかの説明になるのかもしれない。マティスには絵画のあらゆる要素があると言える。ただし写実的な技巧や工芸職人の手の技のようなものはない。いわば「決め」はない。確定事項がないというか、未確定のすべてがあると言うべきか。絵というものに「決め」や「決断」を見たいと思う人もいる。そういう人はマティスを必要としない。

僕の場合、マティスを前にすると、まず絵の具の状態を、執拗に見てしまう。これはもしかしたら、自分の悪い傾向なんじゃないかとさえ思う。

今回の出品作(展示前半)で言えば、台風のような風に煽られているコリウールの海辺とか、いつもの肘掛け椅子とか、あのあたりは僕はもう、絵の前から離れがたい思いなのだが、この二点はどちらもマティスの作品のなかではかなり薄塗りな方で、溶き油でシャバシャバに溶いた絵の具を用いて素早く描かれている。マティスのこのシャバいやつが、自分は死ぬほど好きなのだが、しかし薄塗りが良いとはどういうことなのか。厚塗りならイマイチということだろうか。絵の具の質感は、マティスの良さと関係あるのだろうか。

もちろん関係はあるだろう。その質感こそが、リテラルな物質としての作品を支えているのだから。しかし作品が物質感のみで知覚されているわけではない。そもそも絵の具の質や塗りの感じ、それを物質感だと思っているけど、それは本当か。

そんなことを、後のトークでの岡﨑乾二郎の言葉を聞きながら考えていた。(以下の文章はそのトークで聴いた内容や、その前に/それを元に/それとは別に、自分の考えたことが混交しており、トーク内容の記録ではないのでご承知いただきたい)。

たとえば、絵画を技術的・技法的に学んだ経験のある者は、物質としての絵画について、より多くの情報を引き出すことができるようになるのはたしかだ。物質としての絵画の効果とは、支持体や絵の具の質とか操作性、サイズや距離の効果によってもたらされる。絵画という物質にこのように手を加えればこうなる、このような案配ならこうなるし、これ以上やるとダメとか、それをあらかじめ知っている。その前提で絵画を見るので、自分が手を加えたなら、という仮定と常に突き合わせながらそれを見る。それが追い付かないほど「上手い」絵を、好きな人もいる。人の「決断」を見たいとは、つまりそれだ。

しかしもちろん絵画は、鑑賞者とのあいだに既知の情報(既知だが自分にトレースできない情報)だけを交換し合うわけではない。少なくとも「絵がわかる」というのは「絵がただの物質には見えない」ということであり、物質から別の何かをより多く知覚してしまうことでもある。たとえばそれがマティスを観るということで、マティスを観るとは本来、その危うさに自分で自分のことが心配になるような、怪しくも魅惑的な体験であるはずなのだ(もちろん「絵がわからない」人の方が、じつはマトモなのだ)。

「決め」や「決断」の結果を見て「上手い」と言う。上手いとはつまり「確定的」であり「固定的」であるということだ。しかしマティスはつねに「非・確定的」であり「非・固定的」なのだ。

未来派は運動の状態を確定イメージとして画面に定着させるが、マティスはけっしてそのようなことをしない。マティスは自作品の前で多くを過ごし、制作途中である自らの仕事を見るだろう。自作を見ることによって、マティスマティスである。この絵に対して何がなされ、自分がまだ何をしていないかを見る。そのような時間の経過を過ごす。その経過自体が、運動である。

たとえば、マティスは一枚のタブローに対して、モティーフのとらえ方を何度もやり直して、ひたすら重ね書きを繰り返しつつ、その過程を写真におさめ、そして完成とされた一枚の絵とともに、そうではなかった複数のバリエーションがあって、無数のプロセスが折りたたまれていることを示すが、それは一作品の枠内に限った話ではなく、一枚のタブローが可能性としてはらんでいたはずのもう一枚のタブローを呼び起こすかのように、別の作品が派生しもする。それは別の作品ではあるけど、ひとつの作品のバリエーションでもある。前年(2023年)の展覧会では「コリウールのフランス窓」の隣に「窓辺のヴァイオリニスト」が並んでいた(岡﨑乾二郎氏は去年の展覧会に際して、あの二作品をぜひ隣り合わせで並べてほしいと懇願したそうな)。

隣り合ったあれらの作品を観ていると、あたかもあの真っ黒なフランス窓から、隣のヴァイオリニストが掘り起こされたような、あの窓枠の中から浮き掘られた形象のようではなかっただろうか、と。

マティスは自分の作品が、人々にとって鎮静剤のようなものであれば良い、と語った。当時の鎮静剤としてもっとも広く知られていたのは阿片だろう。マティスも多くモティーフにしている「オダリスク」とは多くの場合、阿片窟である。阿片はそれを用いた人に、中心の喪失、統御からの解放、時間の無効化をもたらす。しかしその後、ふたたび意識を取り戻し、そのときにはまた、何かを思い起こす。想い起すとは、記憶から情報を引っ張り出すということではない。時系列を作り直すことではなくて、むしろみずから時系列を無視して、錯綜へ向かうことだ。

想い起すこととは、ヴァイオリンを、私が今、弾いたと感じること。キリストから千年以上も隔たった時空で、ドミニコはキリスト自身となって受難を体験する。想い起すこととは、時空の制限を飛び越えてその当事者に、キリスト自体になることだ。そして時間は逆行する、あるいは無効となる。描かれた対象そのものになるために、描かれた対象を見る。見続けるうちに、対象はそうでなくなる。
マティスの絵において、描かれている対象はしばしば、すでにその風景の一部に描かれた後だったりする。画面手前からあらわれて画面の一部を遮る何ものかは、すでに壁の装飾として、あるいは窓の外の景色として存在している。時間は逆行する。あるいは無効となる。