ナイチンゲール以前、つまり十九世紀前半まででも看護婦という役割の女性はいたが、実態はほぼ一日中酒酔い状態で病人の周囲を徘徊しあわよくば窃盗の機会さえ狙うような、社会不適合者ともいうべきイメージだったらしい。じっさいには、そうじゃない人物もいたかもしれないが、病院の看護婦と言えば一般的にそういうイメージだったのだと(ディケンズの小説の登場人物である看護婦が、そういったイメージの典型として描かれているらしい)。

そもそも、病院という施設が今とは全然違っていて、病院とはつまり救貧院であり、死を待つ人々が集まる場所という感じだった。上流階級なら、病気になっても入院することはなく医師を招いて自宅で療養するのが一般的だった。ナイチンゲールの著作「病院覚え書」には「病院の第一の必要条件は、病人に害を与えないことである」と書かれている。つまりそれまでの病院は、そうではない場所だったのだ。

クリミア戦争の最中、ナイチンゲールが看護団を引き連れてスクタリの兵舎病院へ赴いたとき、院内は地獄の様相を呈していた。陸軍と官僚の指揮の下で軍医らが働いていたが、現場は不潔と混沌の巣窟と化していた。ナイチンゲール看護団は辛抱強くこの病院内に役割を見つけ、関係者の間に割って入り、医師らに看護の必要を認めさせ、換気、清潔な設備と道具、病床の間隔、見回りの周期、すべてを最初から取り決め、自分らの看護体制を構築していった。

ナイチンゲールの「現場経験」は、この兵舎病院で奮闘した三年でしかない。その生涯を通してみた場合、彼女はけっして「臨床の人」ではない。しかし逆に言えばこの三年こそが彼女の生涯を決定した。ここで得た課題にその後の長い生涯を掛けて取り組んだ。

それにしても、ナイチンゲールの「初現場」が兵舎病院であったこと。戦場で傷付いた者が次々と運び込まれてくる病院だったということ。看護においても近代化のきっかけはやはり戦争だったと言えるだろう。

近代看護が病院の在り方を変え、患者の死亡率を低減させた。何よりも戦争という現実がそれを必要とした。人間をきちんと迅速に正しく治すこと。戦場以外で、ましてや病院内の感染症で死なせてしまっては、元も子もないのだ。ナイチンゲールは一言もそんなことを言ってないだろうが、近代看護は国家と不可分であり、不可分なかぎりにおいて、ナイチンゲールの提言は聞き入れられ、次々と実現されたのだろう。