コピー

 

古谷利裕「偽日記」8/26
(https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2020/08/26/000000)

たしかにすごい。音楽なんてこの30年間で、何も進歩してないのではないかなんて思ったりもしていたのだが、こういうのを見ると、そうではないと思う。これはすごい、さすがにすごい、30年前だったら絶対ありえなかったクオリティだと恐れおののく。少なくとも今時点の、音楽を聴いて音楽をやる人々たち、このステージに立ってる彼ら彼女らは、昔なら考えられないくらい音楽をわかってるし、楽器を知ってるし、演奏というものをわかってるという感じを受ける。それが当たり前になっている状況が、今だと思う。

しかしあの撮影動画、、音楽ならびに演奏の、技術向上と洗練というものが見せる、これこそが成果と呼ばれる何かの一例ではないか。各要素を向上させていき、行きついたところが本来のオリジナルとは避けがたくずれているのだけれども、それがまたこのうえなき魅力を発している、というような。それはお手本にかぎりなく似せるための神経症的な配慮とかとはまるで別の、もっとのびのびとあっけらかんとしたやり方で、しかしながらときに驚くほどのオリジナルへの近接を見せる。しかし同時に、始終まるで似てない別物でもあり、そのことをひたすら思い出させようとする謎なおせっかいなモジュールもいる。

たぶん30年前には、こんな高性能、高偏差値なコピーバンドはいなかったのだと思う。コピーバンドは無数にいても、それを見下ろす俯瞰の領域はいなかった、というか30年前には領域自体がまだなかったのではないか。こんなにあっけらかんと、オリジナル対して屈託ないコピーバンドが、ありえなかったのではないか。

あとCHAIのことだが、見ていきなり「あー!!これか!」と思った。これ見た。去年かその前か忘れたけど、Rookie A GoGoをYoutube配信で観た。それで、おーけっこういいじゃんと、思ったのだ。そうだった。一年ぶりか二年ぶりか忘れたけど、とにかく再度聴けて嬉しかった。というか、ひさびさの再会で相手を見たときに、あー俺ってじつはこれが好きだったんだ…と、いまさら自分の気持ちに気づいてしまう的な、そんな思いに駆られて、以後ひたすらChaiを繰り返し聴いている状況となっております。

電車のドア脇に立って、乗り込んでくる人たちをやり過ごしている。ほとんどの客が車両奥へ向かい、空いてる席に座ったりその前に立ったりして、やがて全員の車両内位置取りが決まって、ドアが閉まり、電車が動き出す。僕のすぐ前に女子高校生が立っていて、うつむいてスマホを熱心に操作している。電車が走りだしてすぐに大きく揺れるので、つり革や手すりに掴まってない立ち客はややよろけながらも姿勢を保つ。女子高生はよろよろと何歩かこちらに近づいてきて、こちらにぶつかりそうになる寸前であやうく止まる。それでもスマホから目を離さないままで、こころもち大股になって姿勢を安定させようとするが、いや、もうちょっと離れてほしい。まだ空きスペースあるし、あと二歩くらい後退してほしいと、ドア脇のコーナーに追い詰められている僕は思う。電車がまた揺れて、何にも掴まってない女子高生がヨロヨロとよろけて、ふたたびこちらにぶつかる寸前くらいまで近づく。いや、だから距離感!距離感おかしいだろ君は…と思う。周囲を見渡して状況判断しなさいよ、お父さんとお母さんに怒られるぞと思う。電車内で、女子高生の距離感が近かった…って、こんなことをブログに書いてるおっさんが、どれだけグロテスクなものか、書かせんなよ…、そう思って、めまいをおぼえる。自分の胸くらいまでの身長しかない、高校生の女子というのは、今の僕にはとても幼く見えて、大げさかもしれないけど小三の姪っ子に近いものを感じる。ただしそのうつむいた頭部の頭髪の感じには、若い女性のそれらしさみたいなものも、たしかにあらわれているとは思う。その、らしさとは何か、子供の柔らかな不定形さと大人の硬質さ、それで言ったら後者の方。カチンと跳ね返すような冷たい存在感。毅然としたものが萌芽してくる気配といったようなものか。それを見やりつつ、けして交わらず平行して立つ別の樹木のごとく、おっさんそして老人としてこれから毅然と立つには、どうすれば良いのか、律する自意識を保ちつづけるには。

会社

蒸気船ユニオン号について、長州、薩摩、亀山社中三者の間で紛争が生じた。この船は、自前の船を持たない亀山社中が、アクロバチックな手法で社中の船として「リース」していたものだった。長州藩は軍艦を持ちたいのだが、幕府の禁制により購入できない。これを坂本龍馬は、表向き薩摩藩が購入するかたちにして、実際は長州藩が金を出して所有権を持ち、運航は亀山社中が行うということにしたのである。

しかし、長州藩としては、金だけ出して船が使えないのが困る。幕府との海戦は必至とみられていた。このため船の返還を求め、交渉が難航したのを、近藤長次郎が解決に導いたのだった。ただし、長州有利の結末である。平尾道雄氏の『海援隊始末記』によれば、長州藩は償金を長次郎に支払った。長次郎はこの金を私物化、長脇のグラバーに話を通し、かねて念願のイギリス留学を計画して、実現寸前まで進む。長次郎はこの計画を社中に秘密にしていたが、知られてしまう。これまでも長次郎が無断で行動し、手柄を独り占めしてきたことへの反感もあり、慶応二年(一ハ六六)一月、長次郎は切腹せざるをえなくなる、享年二十九。

(中略)

亀山社中海援隊が日本で最初の株式会社である、と述べたのは、経営学者の坂本藤良氏であった。氏は後にこの節を撤回、幕府の兵庫商社こそがそれに当たると別の説を唱えた。両説とも定説とならなかったが、亀山社中海援隊のとらえ方において、最初期の会社であるというイメージを作り出す役割を果たした。司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』では「坂本龍馬」を、亀山社中という「日本最初の株式会社の社長」に擬している。

亀山社中海援隊は、規約「射利」(利益を得る)を明記するなど、当時としては先進的な集団であったことは確かである。しかし、亀山社中海援隊を「会社」とみるのは無理がある。亀山社中海援隊は、種々の性質を持った未分化な集合体だった。彼らにとって射利は目的でもあったが、それ以上に、海軍として、政治結社として活動する資金を得るための手段だった。会社が会社であるためには、社会正義といったものと切り離して利益を追求しなくてはならない。会社は利益を上げなければ倒産する=会社でなくなるからだ。亀山社中薩摩藩海援隊土佐藩の経済的支援なしには成り立たなかった。

正義と利益とは、別の角度から見れば公と私である。近藤長太郎は私の利を図って、亀山社中海援隊内部の義=公を損壊した。これが純粋に利を目指す集団(会社)であるなら、懲戒免職=集団からの不名誉な追放で処分は終わるはずだ。しかし、亀山社中海援隊は、社会的な義=公を体現する集団でもあり、集団の規律を乱すことは、単なる内部規律違反ではすまない。社中には「凡そ事大小となく社中に相談して之を行ふべく若し一己の利の為め此の盟約に背く者あらば割腹して其罪を謝すべし」との盟約があったと言われる(『坂本竜馬関係文書』)。長次郎は、みずからの過ちを命をもって償わなくてはならなかった。ここには、公と私の区別は存在しない。

坂本龍馬が、もし明治維新後も生きていれば、海援隊を貿易会社に発展させて世界に羽ばたいただろう、としばしば語られる。まんざら荒唐無稽とは思えず、なにより美しい空想である。しかし、どうだろうか、存命中の竜馬は多忙に過ぎて考える間もなかっただろうが、もし生きていれば、貿易で成功するには会社組織が必要であり、会社は利益のみを存在基盤とするものだと気づくことになったはずだ。竜馬は、そのようなものに人生を賭けることができただろうか?岩崎彌太郎はそうすることができた。

 

岩崎彌太郎「会社」の創造 井伊直行 119~122頁

気温

朝、寝室に冷房が効いているのは、夜中に暑さで目覚めた妻か僕のどちらかが、エアコンを起動させるからだ。それは明け方になるとしばしば部屋を冷やし過ぎてしまい、僕は無意識のうちに薄いタオルケットをしっかりとくるまっていたことに、目を覚ましてから気付いたりもする。眠りながら、寒い、危険だ、風邪をひくかもしれない…と、眠りと目覚めの間で考えていることもある。しかし今朝、目覚めて見上げるとエアコンは停止していた。先に起きた妻があらかじめ停止させたわけでもなさそうだ。なぜなら隣の部屋のエアコンも稼働していなかったし、それでも室内が、昨日までとは違って、きっちりと室温調整したかのように、ひんやりと冷たく引き締まっていたからだ。その後、玄関を出て駅まで徒歩で向かうときの、外の空気が肌にあたる感じも、やはりさっきと同じ質感だった。毎年この時期に特有の、昨日までと今日とを冷酷なまでに潔くはっきりと区切る、いつものやり方がなされたのだ、この感じにはおぼえがある。一年に一度、かならず記憶から呼び起こされる。

初老心

暑さのせいでもあるけど、せっかくの休日でもずっと家に引きこもっているのは、けして悪いことではないなあと最近よく思う。家にいることの面白さがあるし、家にいることの退屈さもある、どちらもあるのだが、結果的にはそのどちらもが、なんとなくいい感じのひとときというか、やや大げさに言えば、間違ってない選択に思えてくる。

おそらく年齢のせいもあるのだろうけど、仕事ではなくて、とくに何の束縛もなく、強いて言えば"休日"という束縛下で、室内にじっとしているとき、心身に不思議なコントロール不能感というか、ぼんやりとした不調感というか、いやな胸騒ぎ的、イラつき的、只ならぬ非常時感を感じたりすることも、あるにはあるのだ。おそらくただじっとしているというだけで、人は簡単に不安になるし不調の予兆を体内の声として聴いたりもするのだと思う。それがいわば不定愁訴だの更年期障害だの云われる事態なのか、その近傍に位置する事態なのか、そもそもそういうこととは違うのか、よくわからないけど、いずれにしてもやはり家にいるのは正しい気がする。家にいるのが正しいというよりもデフォルトがそこであると自分にわからせなければだめなのだと思う。きちんと正確に自分のスコープをとらえなさいよということなのだと思う。

食べ物の興味が増すというのは、生活における変化の、食べ物というインプットが一日単位のトピックスにおいてはそれなりに大事件であるからだろう。若いということの不自由さ、無知さ、了見の狭さというのに、若い自分が苦しんでいた頃なら、そのつまらなさにかなしくなって、早いところそうでなくなりたいと思うものだが、そうでないことの嫌な感じも、やっぱり嫌なものだとここに来てようやくわかってきたのが今頃ということなのか、だとすればいまの自分がちょうど老年の初心者に該当するのだろうけど、そんなことを書いていてもまったく面白くはない。

年齢が進むほど具体的になる部分と、年齢が進むほど抽象的になる部分がある。前提として何時においても抽象というのは大した面白味のないもので、但し年期の入った抽象には特有の凄みがあることは間違いない。その一方で具体性は年期を経るごとにほぼ他者に共有を促すことのできる質感をともなわなくなる。いまこの実感をまざまざとあらわすことと、それが他へトランスファーできることの両立を信じられなくる。こうなってくると、やはり芸術とは老人のものかもしれない、ここまで来て、今からようやくその実効的な使い道を見出せるようになるのかもしれない。

没年

この暑さだと、図書館に行くにもほとんど命がけだ。追手から逃れるかの如く、炎天下に焼かれつつ命からがら館内に逃げ込んだが、それにしても身体ダメージ大きすぎる。本を物色している途中も、頭がぼーっとなり全身がだるく、回復してくるまでにかかる時間がいつもより長い。このあと買い物するなり美術館行くなりのプランを考えていたのだが、死ぬからやっぱりやめようこのまま帰ろう、ということにする。

たまたま目についた井伏鱒二の「駅前旅館」を立ち読みしていて、ほか作品もいくつか借りて帰った。とりたてて何か思うわけでもなく、なんてことないのだけど、ただ一文一文を追うごとにしみじみと渇きに水分が沁み込んでくるかのような良さで、それだけで来た甲斐があった。井伏鱒二という作家もほとんど文学史的というか、日本の文豪、巨匠…という感じだが、没年は1993年で、当時僕は、井伏鱒二死去の記事が新聞に掲載されたのをおぼえている。それを見て、まだ存命だったんだなあ…と思ったこともおぼえている。

今から思い返せば、80年代~90年代は高度成長時代の爛熟と終焉の時期でもあるけれど、戦後の残滓が今より漂っていたには違いなくて、それは戦時下を潜り抜けて生きた人々の後半生がその時期であったからで、そういう人々がこの世から去っていこうとする時代でもあった。大岡昇平は1988年死去、これは僕はまったくおぼえてない。小林秀雄は1983年。もちろんおぼえてない。小林秀雄の名前をはじめて知ったのはたしか高一の全国模試の出題文だった。安部公房1993年、埴谷雄高1997年、なんとなくおぼえているような気もする。中上健次1992年、これもおぼえている。朝日新聞に「軽蔑」を連載していて、その直後だった。それほどきちんと読んではいなかったし、当時、筒井康隆とかを除けば、僕は同時代を生きているほぼすべての小説家に興味がなかった、というかそういう興味のありよう(小説という「手段」)を、まだ知る以前の段階だった。だから訃報をみたときは、あら、死んでしまったんだ…という感じだった。46歳という没年齢も、まだ学生だった自分にとって関心の範疇ではなかった気がする。しかしもはや、そんな僕も、50歳を迎えようとしているわけですからね…。暑さも堪えるわけだよそりゃ。

親方

お店のカウンターで自分が一人で酒を飲んでいるとして、店は客も少なくヒマだとして、そんなとき手持無沙汰の店主が何をしているかというと、棚上のテレビを見上げて常連のおっさんと世間話してるようなことはよくある。年齢が若いなら従業員の女の子との雑談に余念がないということもありがちで、話が盛り上がってると注文したくても呼びかけるのに躊躇するが、話しかけられてる方が迷惑そうなら、その相手をじっと見つめていると、すぐに気づいてオーダーを取りに来てくれる。最近だと、かなり年配の手練れな風貌の職人っぽさを醸し出しながらも、まるで駅のホームで電車の来るのを待っているかのような姿で、カウンター越しにじっとスマホを見て俯いているすし屋の親方なんかもいる。合間合間に、スポーツ新聞の競馬欄を真剣に見つめている親方もいたけど、これはこれで、やや風情だとは思った。今はもう閉店してしまったすし屋だが、かなり高齢の店主で、ふと見るとテレビを見てると思いきや、うとうと居眠りしていたことが一度あった。起こすのもかわいそうなので、しばらくそのまま放置していたら、ほどなくして別の客ががらがらと入り口ドアを開けたので、親方もそれで何のことなく目覚めていらっしゃいませと声をかけ、僕も続いて続きを注文できた。その親方はもう後期高齢者であったので、仕事も円熟の境地を通り越して適当さいい加減さも大概で、そういうところも僕ははわりと好きだったのだが、これは他客は引くだろうなあと思うことも多かった。何しろ雑談がはじまるとデカい灰皿をネタケースの上にどんと置いてタバコをガンガン吸い始めるし、にぎりを注文するとそのままその手で握り始めるので、これは怒る客は怒るだろうなあ…とは思った。入口をがらがらと開けたら、カウンターに突っ伏して寝ていることさえあった。お爺ちゃん頑張りすぎだろ…と思った。いやあ、最近おしっこがさあ、間に合わなかったり、なかなか思うように行かなくてねえ?などという話を聞きながら、その手で握ってもらうお寿司というのは、かなりの迫力があった。閉店したときは、寂しさもあったが若干安堵もした。べつによく知らないけど、たぶんまだ死んでないと思う。今後はゆっくりしていただきたい。