暑さのせいでもあるけど、せっかくの休日でもずっと家に引きこもっているのは、けして悪いことではないなあと最近よく思う。家にいることの面白さがあるし、家にいることの退屈さもある、どちらもあるのだが、結果的にはそのどちらもが、なんとなくいい感じのひとときというか、やや大げさに言えば、間違ってない選択に思えてくる。
おそらく年齢のせいもあるのだろうけど、仕事ではなくて、とくに何の束縛もなく、強いて言えば"休日"という束縛下で、室内にじっとしているとき、心身に不思議なコントロール不能感というか、ぼんやりとした不調感というか、いやな胸騒ぎ的、イラつき的、只ならぬ非常時感を感じたりすることも、あるにはあるのだ。おそらくただじっとしているというだけで、人は簡単に不安になるし不調の予兆を体内の声として聴いたりもするのだと思う。それがいわば不定愁訴だの更年期障害だの云われる事態なのか、その近傍に位置する事態なのか、そもそもそういうこととは違うのか、よくわからないけど、いずれにしてもやはり家にいるのは正しい気がする。家にいるのが正しいというよりもデフォルトがそこであると自分にわからせなければだめなのだと思う。きちんと正確に自分のスコープをとらえなさいよということなのだと思う。
食べ物の興味が増すというのは、生活における変化の、食べ物というインプットが一日単位のトピックスにおいてはそれなりに大事件であるからだろう。若いということの不自由さ、無知さ、了見の狭さというのに、若い自分が苦しんでいた頃なら、そのつまらなさにかなしくなって、早いところそうでなくなりたいと思うものだが、そうでないことの嫌な感じも、やっぱり嫌なものだとここに来てようやくわかってきたのが今頃ということなのか、だとすればいまの自分がちょうど老年の初心者に該当するのだろうけど、そんなことを書いていてもまったく面白くはない。
年齢が進むほど具体的になる部分と、年齢が進むほど抽象的になる部分がある。前提として何時においても抽象というのは大した面白味のないもので、但し年期の入った抽象には特有の凄みがあることは間違いない。その一方で具体性は年期を経るごとにほぼ他者に共有を促すことのできる質感をともなわなくなる。いまこの実感をまざまざとあらわすことと、それが他へトランスファーできることの両立を信じられなくる。こうなってくると、やはり芸術とは老人のものかもしれない、ここまで来て、今からようやくその実効的な使い道を見出せるようになるのかもしれない。