パンドラの匣


テアトル新宿にて「パンドラの匣」観る。夜の20:50の回。これを観るためだけにわざわざ新宿まで来て、終わったら11時前とかだろうから、とくにどこかへ寄り道もせずに帰宅する訳で、そこまでして観にいくのだから、それなりに面白くなかったらショックだなあと思って観にいったが、結果的にはなかなか面白かったので良かった。まあしかし相変わらず、映画を面白いと思っているんだか、太宰の小説の面白さを思い出してそれを面白がっているのだか、よくわからない。映画としては…かなり面白かったと思った。竹さん役に川上未映子を配したのは、ちょっと疑問手かなあ…と思ったが。。帰ってから久々に太宰治の小説の方も少し読んだ。やはり面白い。ところどころ、適当にとばしながら実に…20年ぶりに読んだが、しかし本当に、圧倒的に上手い。一気に惹きこまれてしまう。そして面白い。女性二人が入れ替わり立ち替わり自分の元に来てくれて、何やかやとベタベタ、ちやほやと、世話をしてくれるという、とてつもなく甘美で、際限なくひたすらマゾ的な自己愛的な世界で、何もしていないのに勝手に女性の方が自分を好いてくれるという、まあある意味、ケツの穴が痒くなるような物語なのだが、そこに新時代への希望とか新しい自分、という存在への孤独な祈り、信じたいという気持ち…みたいなものが折り重ねられる事で、希望やうつくしさを目前にしながらも、結局は絶望的なまでに無力な、まったく裏打ちの補強材を欠いた脆弱な、自己保存意志それ自体を欠いている事の脆くはかない美しさが、ありありと見えるかのようなのだ。(「単純」で「新しい男」でありたいと願う気持ちと、自己保持の意志を欠いたままの状態とが、太宰的世界では危険に重なり合う。)おそらく「パンドラの匣」において感じ取るべき箇所を挙げるとしたらそこしかないように思う。映画も、そのあたりの感じが微かに香っているように思えて、だから良かったのだ。そして今、改めてもう一度、その部分を丹念に味わい直したいと思った。