「西鶴一代女」


西鶴一代女 [DVD]


ぬるぬるーぬるぬるーと横へ流れてゆく。登場人物の運命とシンクロするかのように、形振り構わぬ勢いで、ひたすら見つめつづけて、そのまま、ぬるぬるーぬるぬるーと横へ横へと流れて流れてどこまでも流れきってしまうだけである。それが何かの意味とか何かの象徴とか説明とかでは決してない。ある意志に基づいて仕掛けられた、人工的な水平方向への崩落と瓦解があるばかりだ。


全編、とにかく登場人物は横へ横へと移動するので、そのたびの一瞬ごとに、その場その場で世界がその都度パタパタと新たに立ち上がってくるのだけど、それが何か実を結ぶ訳でもない。空虚といえば空虚に、各シークエンスは順々に消化されていく。物語の次元では、落ちぶれても落ちぶれても、まだまだちゃんと下がある。それが現実だと嘆息する暇さえなく、どこまでもどこまでも流れて落ちゆく。世界はどこまで行っても、もう限界だろうという地点にまで来ても、まだちゃんと在る。…溝口的などと一口に言うけれど、それは一体何なのか?とにかくこれほど無意味に研ぎ澄まされた空虚な輝きも珍しい。奇妙な映画。これらの有様を簡単に「価値あるもの」と断定できるのか?これらの本性とはもう少し不気味で得たいの知れぬものだろう。


しかし本当にこの、雪崩落ちてゆくかのようなぬるぬるした移動は何なのだろうか?手でしっかり抑えていないとカメラが勝手に横に滑り落ちてしまうような、固定できない不思議な三脚でも使っているのだろうか?そうとしか思えないほど自分の力でちゃんと踏ん張っていられないようなだらしない視点で横にずるずる滑り流れてゆくカメラ。ではそのようなカメラの前で、登場人物たつ役者たちは何をすれば良いのか?日本家屋の間から間へカメラが流れていくのに必死になって追いつきながら、三船敏郎は閉められた障子を次々と開け放しつつ田中絹代の姿を視界に留まらせようとするだろうし、自殺を図ろうと刃物をとる田中がとどめようとする母から身を引き剥がしつつ逃げて逃げて…その逃げる道程はまったく偶然の蛇行のようでもありながら、追い掛ける/先回りしているカメラの視線に、完全に捕捉され統御されて枠の中で弄ばれているようでもあり、逆に、田中の方が見つめるカメラを完全に従えているようでもあるのだ…。この「偶然」と「規定」の区分線をなし崩しにしてしまうかのような一連の出来事の異様さ。ちょっと油断するとすぐにだらしなく横滑りしてしまうような、そんなカメラの視線にありったけの豊饒さを記憶させるためだけに、映画の役者もスタッフもてんてこ舞いして総動員体制で、力の限りの大伽藍を作り上げているのである。揺れ動くカメラの端にほんのすこしでも映り込めばそれで良いのだというかのように、ほんのわずかな隙間に圧倒的な偽モノの世界がこれでおかと云わんばかりに映りこんでいる。


これらは単に「素晴らしい」といってすませる事を躊躇わせる何かであって、ほとんど空しく後味の悪いような、嫌な予感のような不毛の気配さえ含むような、限りなく空虚に近いような、そういう独自の感触を心に残すのだ。