「カンバセイション・ピース」の舞台となる家は昭和二十三年に建てられて、全部の部屋が畳で、部屋と部屋の仕切りはすべて襖の家で、最初は伯父と伯母と四人の子供の計六人がいて、そこに主人公の家族(母、本人、弟)の三人が加わって、それら全員が部屋ごとの境界線も曖昧なまま渾然となって暮らしていたのが昭和三十年半ばのことである。やがて主人公の家族は別の場所へ引っ越すが、主人公は夏休みだけは必ずそこへ遊びに来る事が半ば確定事項のようになっていた。
その後、何十年か経って、伯母が亡くなって、その息子である英樹兄から「住んでくれないか」と頼まれた主人公は妻と猫三匹とふたたびその家で暮らすことになる。さらにその後、主人公の大学の後輩である浩介が自分の会社の事務所としてその家の一角を使い出すようになって、浩介、沢井綾子、森中の三人も半同居、みたいな格好になる。
「カンバセイション・ピース」というのはそういう話である。とりあえずここ数日は伯父のことと浩介のことが印象に強く残っている。この二人のことは好きである。というか、かつて伯父が座っていたところに、この間久しぶりにこの家にやってきた英樹兄が座って、そして今はその同じ場所に浩介が座っていたりする。この三重になった重ね絵のことが好きなのである。僕は、家というのは、とくに古い家というのはやはり、古めかしくてややこしい、気の滅入るような人間の匂いが澱になって澱み溜まっている場所だと思うのだが、それはそれとして、古い家というのは常に、如何なる家であれ例外なく、ツワモノどもが夢の跡…という雰囲気を濃厚に宿しているものだと思う。かつての一家の主が座っていた場所に、他所の誰ともわからん輩が平気で座る。というのがまさに、古い家というものの、古い家ならではの事なのだと思った。
「何も残さなかった」伯父の時間の過ごし方と、浩介のひたすらギターを弾いてるだけの時間の過ごし方との重なりも印象的で…いや印象的とか何とかいうよりも、そういう時間の過ごし方こそを僕が求めているという事で、だから魅力的に思うのかもしれないが…いやでも実際に、そういう何もない時間、というものにまったく耐えられない人間が僕なのだ、という事も、よくわかっているつもりなので、単なるない物ねだりの憧れでしかないのだとは思うが。