午前中、ふいにチェーホフ「犬を連れた奥さん」という小説の最後のところあたりを思い出して、突然の事ながら、ある種の感慨めいたものを感じて、会社の昼休みに、近くの書店に行って表題の文庫(新潮文庫)を買い、喫茶店で少し読んだ。最初の、ヤルタでのあまりにも瑞々しい出会いのシーンだけ読んだ。
まったく小説というのは、書かれている事が嘘なのか本当なのかはともかく、なにしろすべてが終わった事として書かれているものだだなあ!とあらためて思った。この不倫の恋愛の一部始終は、すべて終わった事なのだろうか。この後、二人はどうなってしまったのだろうか。それは、わからない。というか、かつて、ヤルタという土地に保養で滞在していた二人の男女がいたということや、その後で、色々あったということも、何もかもが、すべて過去のことなのだ。僕たちの知っているチェーホフがいて、僕たちの知っているロシアがあって、僕たちの知っている19世紀とか20世紀があって、しかし、主人公のグーロフは、そんな事など想像もしていない、というか、今の我々が未来から見つめられている視点を想像できないのと同じように、グーロフはそんな事とはまったく無関係な世界にいて、人生をより良く楽しく素晴らしいものにしたくて、その世界の中で祝福を受けたかのように、アンナに出会うだろう。はじめてアンアと出会って、あてどもないお喋りをしているとき、アンナは夫の勤め先が県庁なのか県の自治会なのか、どうしても説明できず、それを女は自分でもおかしがったりしているのだ。その後、何度も逢瀬を重ねるふたりであるが、いったいお互いがお互いのことを見ているのだか見てないのだか、必要なのだか必要じゃないのだか、すべてが失望であり、同時にすべてが決定的であるような一瞬一瞬を、僕たちは悄然としながら読み進むしかないのだ。・・・そんな一瞬があったということを、誰がおぼえているのか。なぜ、どのようにしてそれが今ここに伝わるのか。
ものすごい風の吹いている場所とか、海とか…旅行にでも行きたくなるね。