ボナール


何もしないで只ひたすら時間をやり過ごし続けるという豪奢もあれば、ひたすら何かに奉仕して労働して献身的に身を捧げ続ける、という豪奢もある。でも大抵の場合はどっちつかずで、時間を只やり過ごし続ける豪胆さもなければ、ひたすら奉仕に身を捧げる意志の強さもない。だから中途半端でしかないのだ。でも作品というのはまず、大変贅沢で限度を全く感じさせないようなものでなければならない。作品の奥行きというか、度量というのは、そういう贅沢さに宿る。贅沢で際限なく貪り、飽いたら平然と打ち捨てるような、一々細かい細部を気にする連中を最初から視界に入れていないかのような、人間の取り組みの大部分をろくに興味を示さず取るに足りない事と断じて放置しっ放しみたいな、そういう天然の悪辣さ。正しさだの立派さだの趣味の良さだの、そんなものは作品の外のお話である。作品から発される鈍い輝きとは、おそらく先天的に宿っている悪辣さを光源とするようなものであり、それはすなわち図々しさの輝きであり、だらしなく四肢を投げ出したままの傲岸不遜さ自体の輝きである。つまりそれはエゴイズムの輝きであり、暴力の輝きでもあるかもしれない。というか芸術の輝きというのは暴力的なものである。それは本当の暴力ではないから、芸術って素晴らしいという話になるのだが、芸術というのは、そこから受取る内実としては暴力そのものである。…ポーラ美術館でボナールの作品を観てそういう事を思った。