パンデミック


神保町の画廊にいたら、妻が「地震?」と言って、え?と思ったら、確かにゆらっと空間が揺らいでいるようで、そのまま何か落ち着きのないようなそわそわした感じで、あたり一帯がゆさゆさと揺れ続けているみたいだった。ぎしぎしと、軋むようなかすかな音が聴こえて、天井から吊られた照明器具が左右に揺れていて、ああ地震かもねと思った。そのとき自分はなぜか、もっと切迫した緊張感のある何かとしての揺れを感じられなくて、え、でもまだ揺れてる?と妻に確認したのだが、うん、まだ揺れてるよ、というので、じっとして揺れを感じようとした。そう言われれば、たしかに揺れていた。本来僕は地震には敏感な方で、普段会社にいるときだと、おそらく今よりも全然小さな揺れだとしても、相当目ざとく、ア!今地震、と反応するのだが、今日はなぜか心身のコンディションが、地震を検知できる感じじゃなかったのか、あるいは画廊にいたからなのか。でも室内は、依然としてゆさゆさと軋むように揺れているというのが、天井から吊るされた照明もあいかわらずゆらゆらとしているので、まるで砂時計を見るように僕はそれを見て、ああまだ揺れているとそれでわかって、ああまだ揺れているんだなと思った。画廊のスタッフの女性が、裏から出てきて、地震ですね、と呟いて小走りに走って非常口の扉を開けた。扉の向こうの明るい日差しが室内にさっと侵入してきた。僕は相手に軽く会釈して、様子を伺うような素振りで、とりあえず壁の作品の様子を眺めたりもして、とくに何も変わりは無く、というか、このビル何階だっけ?ああ四階か、多少大げさに揺れるかもな、震度2とか3とかそのくらいかな、と思った。そのまま僕と妻と画廊スタッフの女性の三人で、しばらく無言で天井あたりを見つめ続けていた。揺れは建物全体への静かな力の作用として深く静かに何かを訴えかけるかのようにして続いた。ずいぶん長いこと揺れるものだと思ってそのまま待っていた。揺れの状況が落ち着くのを待っているというよりも、この室内にいる三人のこう着状態が早く解除されないかと思って、そのときを待っているようでもあった。おそらく揺れはその後一分程度続いて、やがて終り、僕はスタッフの女性に、あらかじめそのようににっこりと笑うために用意した感じで、終わりましたねと言ってにっこりと笑った。相手も終わりましたね、と言って、そのように笑って、一度開けた非常ドアを閉めた。


しばらくして画廊を後にして、いくつかの書店に入った。全部の書店の全部の本棚からすべての本が床に落ちて錯乱していた、ということはまったくなかった。太宰治の誕生日はいつだっけなと思って、本屋の太宰の文庫本を開いて確認したら、六月十九日で、ああ、そうだよなと思った。で、今日、六月十三日が何の日かというと、太宰が心中して玉川上水に飛び込んだ日である。今日の、おそらく深夜、たぶん今頃の時間に、べろべろに泥酔して、富栄さんと一緒に飛び込んだのである。十三日に飛び込んで、発見されたのが、十九日で、たまたま誕生日だったのである。


自分は七十一年六月二十三日生まれで、あと十日もすると年齢が三十九になるのだが、それって太宰の死ぬ歳だなと前から思っていた。あと数日で死ぬなあ…と。でもよく考えると違う。あと一年あるのだ。太宰は三十九才の一年間の最後の方になって、心中して、四十才になる筈の誕生日に、遺体で発見されているので、僕の年齢に重ねれば、今から一年後の出来事という事になる。なぜかちょっと安堵した。太宰も死にたいと思う理由の中に多少は「自分が四十歳とかありえねー」という気分もあったのではないだろうか。今日死にましょうよと言われて、まああと一週間したら四十だしなー死んでもいいかと思うところもあったのかもしれない。


そういえば昨日クルマの中で「うそ!おにいちゃん、来年四十になるの!?うわー!!キモイ!それはきもちわるい!」と妹に言われて、実際、兄が、四十才、などという年齢になってしまうのを、妹が「気持ち悪い」と思うのは、実によくわかるので、まったくそのとおりですねとこたえるよりほかなかった。


ちなみに昨日の、六月十二日はたしか、エゴン・シーレの誕生日だったと思う。エゴン・シーレは二十八歳でスペイン風邪で死ぬ。いわゆるパンデミックの犠牲者。十月三十一日が命日らしい。