絵に描いた餅


 絵に描いた餅、という言葉の意味をちゃんとわかって使っているのか?と言われたので、そんなのは当然わかっている。あえて、間違った使い方で、わざとそう書いたのだと説明した。わかってて、あえて使ってるというよりも、あえて、分かろうとせず使っている。という方が近いかもしれない。わかる前に、今そこに、絵に描いた餅、という言葉を、無理やりでいいから貼り付けて凌ぐのだ。それでやり過ごすということなのだ。あまりにも大雑把な手つきなので、言葉のほうが、ぐらぐらと、取れそうになっていて、かろうじて貼りついてるような感じで、いいのだ。

 言葉で説明するといっても、当然正確には説明できず、ありあわせの言葉を適当に並べてなんとか伝えようとする。横着でうわべだけを取り繕う傾向が強い海外旅行客の話す、あやふやであやしい言葉、みたいなのがひとつの理想だ。それが通じると思っているのだ。あるいは、通じなくても、なんとなくもっともらしい感じにはなると思っているのだ。その感じになったら、だいたい、通じることとほぼ同じことが、あっけなく実現されている可能性も、あるかもしれないというところに、願いをかけている。

 わかってるのに、あえてわからないふりをするという事ではなく、むしろ、わかってないのだ。わかっていたものを、最初からわかってないものとみなす。わかってるものを、本気でわかってないように扱うのはかなり難しい。しかし、そういう使い方の要請が来ているというところが重要なのだ。それがスピードとかリズムとして、感じられる。それが感じられないといけない、ということなのだ。とにかく、そう思い込めるかどうかが重要なのだ。そのやり方で、振り回す事ができるかどうかなのだ。