美味しいと感じるというのは、つまり、それを食べていいのだ、それを食べるべきだ、という意味の信号を感受しているのか。


たとえば、蟹を食べて美味しいなら、死んだ蟹から、それを感受しているのか。


しかし、蟹はおそらく、自分自身が、そのような味だということを知らないだろうし、自分が食べられて、それが美味しいと感じられていることを生前、一度たりとも想像しなかった。


というか、蟹の味とは、蟹が決めるものではなく、たとえば鮫が蟹を食べたときの味と、人間が蟹を食べたときの味は、おそらく異なる。


人間の味も、おそらく鮫が人間を食べたときと、人間が人間を食べたときでは、味は違うと考えた方が良さそうに思われる。


鮫と人間とで、蟹は美味いよね。(いや、そうでもないでしょ、俺らはしょうがないから食べてるけど、人間ってああいうの好きなの?)とか、話が出来たら良いが、それも難しい。


この場合、味とは「食べ続けよ」を意味する信号というレベルに落ちていると考えた方が良いと思われるが、それでも食物が一つ一つ違った固有性をもつのは不思議だ。蟹の味は、蟹以外では味わえないし、野菜もそうだ。それが単に美味いか不味いか、ということではなく、それが蟹なのか蝦なのか魚なのか肉なのか野菜なのか、という違いと、美味いか不味いかということが、ある計算式を通した結果が、口内で感じている味覚というものだ。


とにかく、自分自身が自分で、どんな味なのかを知ることはできないというのは、もしかすると、自分が自分の死後を知ることができない、というのと、微妙に似ている。死ぬことが、もしわかったら、そのとき自分の肉体の味を客観的にわかるということになるのか。そして、美味しくなくて、これだったら、わざわざ好んで食べに行こうとは思いませんけどね、みたいな感じだろうか。


動物たちは自分自身の肉の、歯ごたえや味わいについて、どのくらい知っているのだろうか。