予感


水曜日から日曜日までの長距離走で、今日が折り返し地点だとしたら、進捗は予定より大幅に遅れていて、現時点でかなり厳しいと見る向きもあるだろうが、夜九時において自分としてはさほど絶望的とは思わない。午後から躍起になって取り組んだ問題が解決して、さしあたり障壁になりそうな要素が消えて、ただその段階で、あまりにも積み上がった残作業量がものすごいというのは現実としてあって、それを週末の二日間でやりぬくということの実現可否が問われるわけだが、極めて大雑把な薄目を開けて見ているかのような見積もりでは、このまま新たな問題が生じなければ、僕はおそらく生還できる可能性が高いのだが、それというのもなにしろ、結局重要なのは、生きて帰れるかどうかだ。日曜日の夜に、どんな気分でいるかどうかを、水曜日の時点で頭の中で想像していた。こういう感覚が、じつにひさしぶりで、ここまで追い詰められる感覚というのが、久しく無かったのだな。仕事というのは実に、こういう事態をこそ、避けたいというのが、等しく誰もが思うことなのだが、でも結局、こんな風に追い詰められて、万事休すな、四面楚歌な、誰も助けのない、まったくな孤独の、暗闇の、荒涼とした、無人の荒地しか見えないような、今のこの感覚こそが、仕事の中核だ、とも言えるのかもしれない。群集のやることの、組織のやることの、人間ならではの非人間的な、誰の何のケアもない、証拠隠滅が終わった後の収容所にまだ居るみたいな、ぽっかりと空いた風の通り抜ける穴のようなもの。その気持ち悪さだ。そこに時間と作業量を最大限投下して、何事もないかのように埋め合わせる。いったい、何をしているのか。でも、それをするのだ。何のためにか。来週の報告会も短めに終わらせるためです。いや、それは違うぞ。週明けには、この結果を百人以上が待っているわけだが、でもおそらく、誰もが、それを失敗してもかまわないと思っているのだぞ。誰もが、動きたくないのだ。その意味では、今回の僕の行為は、穴を埋める行為とは違うのかな。ただ、それは別に、むしろどちらでもいいな。何にせよ、誰かがどこかで、辛い思いをするのだな。それが事実だ。かつてあったように、これからもある、誰かの辛さ。その予感だ。それだと結局、誰も僕も、何かをしても、やっぱり、何もしなかったのだな。