day3

夏季休暇3日目。ひたすら暑い。業務的マンネリズムの過酷さ、非人道性、零れ落ちるものを見捨てよと諭す一方性のむかつくような厚かましさ、すーっとしたくて、午前中は久々に地元のジムで泳ぐ。水泳もさいきん、すっかり週一ペースになってしまったが、またぼちぼち頻度を上げていきたい。それにしても、この休暇ならではの手持ち無沙汰感。このぎこちなさこそが休みというものだ。僕もすでに、勤め人をもう20年も続けていることになるけど、ということは週末の休みだの夏季休暇だのも、その年月の合間に何度も取得しているわけで、休暇というオブジェクトを勤務日数に対して多いとか少ないとか考える思考形式はそれをきちんと与えていただける純白な時間だとみなしている時点であまりにもピュアすぎるというか純朴な奴隷人の精神に思えて、僕はむしろ労働時間を正当に確保するよりも労働時間そのものをなしくずしに溶かすような感覚で自らの日々を組織する方が資本家に対するカウンターとしてはまっとうと考えているのだが、でもそれがそんな自分の思うように今までやってこれましたと断言できるとは到底思えなくて、とはいえまあ、それはおいといて、それとは別に、こうしてふいに限定の時間だけぽいっと放り出されたような「お暇」をあたえられるというのを、思えば20年間にもわたってたびたび繰り返してきたのだなあと思って、これはこれで、日々の合間におとずれる他ではありえない不思議に特有な時間であって、その時間のなかにいるとき、いつもながらきっとそんなときの僕は、おそらく何か得体の知れない幻想を見てしまっている。いつもとは違う特殊な可能性が急に降り注いできたような気になっている。それで、いつもなら出来ないことが今日に限ってはできるんじゃないかと思ってしまっている。しかしそんなはずはないのだ。今これも、いつもとまったく同じ時間に過ぎないのだと、それでもすでによくわかっている。納得できている。そのはずなのだが、その心ではない箇所が強情にそんなはずはないとまだ思っているかのように、体の動きが往生際悪く、意地きたなく何かを待っているかのような歯切れの悪さになる。なんの根拠も手がかりもないのに、ここにとどまっていれば何かありそうだと目だけ動かしている浅ましい人に成り下がっている。それが休日だ。

 

まあ、この6連休はそれでいいのだ。最初からその覚悟で迎えた。ただ昼からごはん食べて、あとはでーんと構えてればいいのだこの夏は。そのつもりで今週を迎えたのだった。しかしそれだけだと、じつに長い三日間だ。とても信頼に足る、昔からそう思っているトラットリアでランチ。昼間から無粋にもおそろしくゆっくりと何杯もグラスを重ねてしまって長々とすいませんでした。

 

本日はブイヤベースを作りました。先々月から続く圧力鍋レシピからのチョイスも、そろそろネタ切れになってきたか、いやまだまだたくさん作れるものはあるだろうけど、真夏のこの時期に煮物をする発想になかなかならないということ。まあ、そのわりにはよく使ってると思う。

 

CSの「追悼・萩原健一」映画特集から神代辰巳「青春の蹉跌」を観る。堪能した。久々に神代テイストを観た。すばらしい。萩原健一もいいけど、脇を固める壇ふみ桃井かおりがじつにいい。若い人間の肉体として単純にいい。物質としての肉体には何の屈託もごまかしも言い訳もない。観念的な要素がほとんどなくて、ほんとうに物質の運動だけがある感じがしてそこがいい。萩原健一の上半身、桃井かおりの裸身のすばらしさ。水着姿の壇ふみの手足の長さ、ヨットから海に飛び込んでけっこう長いこと潜水する泳ぎの見事さ。終盤、萩原と桃井が、雪山で代わる代わるおんぶし合って転んだり這いつくばったりしながら雪の中で裸になったり、抱き合ったままずるずると斜面を滑り落ちていく場面など、ほとんど涙なしでは観ていられないほど。

 

続いて溝口健二近松物語」dvdを観る。十何年ぶりだろうか。それにしてもまあよくできた精巧な精密機械のような映画だ。話の主軸はもちろん、おさんと茂兵衛の心の移り変わりが、最終的に取り返しのつかない、一線を超えてなおも突き進もうとする不気味なほどの推進力にあるのだが、それだけでなくそれに伴ってあらゆる周辺人物が自らの立場や思いに応じてさまざまな動きを各々演じて、それがまるで人間関係のピタゴラスイッチのような、連鎖が連鎖を呼ぶ非人間的抽象機械の動きをただ黙って観ているほかないような、まったく寂しく絶望的なほどの高みの神様視点から、我々はこのお話を黙って観ているしかない、という感じなのだった。

 

おさんと茂兵衛、どの場面でも、今もありありと目に浮かんでくるほどの、鮮烈な恋愛の泥沼が描かれていて感動的で、彼らふたりはほぼ自分を制御できておらず、それはブレーキの壊れた車がひたすら速度を上げながら崖に向かって走っていくのをただ眺めているときに感じることができるかもしれないような感動の質である。そして家の主人である進藤英太郎のいやらしさと偉そうな感じと不安に駆られる表情とオロオロした態度の、あまりにも見事な存在感はどうだ。おさんの兄の田中春男の、これほどまでに事態が悪化しているのに相変わらず放蕩をやめず、しかしその覚悟も考えもなくただぼんやりとした表情のまま沈む船に浸水してくる水をじっと見ているだけのような筋金入りの無気力さはどうだろうか。母親である浪花千栄子の 、最悪の事態に直面した際の母親が見せるのであろうあの態度と表情の凄み。小沢栄のいやらしさと石黒達也のいかにもな小悪党ぶり。脇役たちの完璧さがいつまでも心に残る。そして最後の処刑に自ら喜んで赴くかのようなあのふたりの姿。ほんとうに、人間の幸せって何なのでしょうか。本気でわからない、誰か教えてくれないか。