MOVIX亀有で濱口竜介「寝ても覚めても」を観る。以下、物語内容に盛大に触れる。原作の小説もそうだが、この話はストーリーをあらかじめ知らないままで体験した方が楽しいと思うので、観る/読む予定の人は以下を読まないことをお勧めする。自分が原作を読んだのはもう八年くらい前だが、かなり鮮烈な(古典的メロドラマ形式の)物語なのでよくおぼえているが、映画の前に再読はしてない。それでも映画が始まってすぐに「小説ではなくて映画だ。」と思う。映画というのは、カメラが、各登場人物を撮影するものだ。冒頭で、死ぬほど楽しそうに付き合ってる麦と朝子が出てくるが、そうか朝子は外から見たとき、そんな風に楽しかったのかと思う。
朝子を演じる唐田えりかが素晴らしかった。ある意味最初から最後まで、この人の表情を見て何かを感じ取るしかない作品という側面もある。
朝子以外の登場人物たちは、とてもいい人たちという感じだ。性格が良いというよりも、書割のように明快でわかりやすい。岡崎は気持ちのいいやつだ。大阪で、朝子が麦と大恋愛中のとき、春代は敏感なアンテナで朝子に「あの男はやめといた方がいい」と忠告する。麦が去って、東京に来た朝子とマヤの家で、マヤとクッシーが初対面で喧嘩して仲直りするシーンはまさに濱口作品の真骨頂である。亮介もことあるごとに完璧に空気を読めて的確なふるまいが出来る人物だ。
これらの登場人物に囲まれている主人公の朝子だけが、不明瞭な、その内面を容易に推測できないような無表情を貫いているように感じられる。あの朝子を、外側から見たら、こうなるのかと思う。
震災が来る前くらいまでは、朝子が何を考えているのかが亮平にはいまいちわからない。映画の観客側としては、朝子と麦との過去を知っているにしても、心が揺れ動いている朝子の内面がわかるというわけではなく、いきなり亮平に別れの電話をしてくるとか、ちょっと理解し辛いと言った方が近い。朝子も葛藤しているのだろうけど、葛藤の中身は描かれないし、いつもの寂しげな無表情だけしか見えない。しかし朝子もしだいに変わっていくかのように見える。抑制されてはいるが、朝子が自分自身の考えを言葉にし始めるシーンが少しずつ出てくる。
ここまでで、最初の麦と大恋愛中の朝子、失恋して東京に来た朝子、亮平に心を開きつつある朝子と、朝子の演じ方に三つの段階が生じているのを感じている。しかし、三つ目の朝子にこれまでの鬱屈が消えた爽快さを感じるほどではない。朝子の表情や振る舞いが、最初の頃とそれほど強いコントラストを見せるわけではない。朝子自身の言葉にしても、唐田えりかという役者の表情や仕草や喋り方には(他の登場人物とくらべて)明快さやわかりやすさが強く出てこない。そんな朝子が最後まで、この感じのままで行ったという印象を受けた。それが、この映画の質だと思った。朝子は変わらない、というか、変わったか変わらないかわからない。だから亮平が最後に「お前のこと信じられない」と言うのが、正しい認識とも言えて、たぶんあの二人は、あのあと上手くやっていくのではないか、とも思われる。
原作の小説では、衝撃の「裏切り」が実行されてからラストに至るまでは、罪悪感と快感の高密度で混ざり合う強い緊張をたたえた瞬間の、ついにやってしまったなあというヒリヒリとする感覚に満ちていて物凄いのだが、あれは例えば宮沢賢治「よだかの星」の最後でよだかが空に上っていくときの、もはや良いとか悪いの倫理を飛び越えて語る側もそれを安定した場所から冷静に描写できる地盤を失って、すべてがドロドロになったまま速度だけがリミット切れてぶっ飛んでいくような、小説ならではの迫力が読者の心をわしづかみにするのと同じような作用が働いていたと思うのだが、ああいうのは、映画で同じような再現を試みても無理なのだと思う。やるなら「カッコーの巣の上で」や「汚れた血」とか、あるいは「2001年宇宙の旅」のラストみたいなことに、なってしまうのだろうか。でも本作はもっと落ちついた知的な感じの映画的操作で仕上げられたという感じだった。(再会後の春代がプチ整形していること、元気だった岡崎がALSの病に掛かっていること、岡崎の母親が最初と最後変わらず"あの感じ"であることが、作品の他の何の要素と響くことなのかが、自分は気が付けていない