川火

佐伯一麦をはじめて読んでいるのだが、「日和山 佐伯一麦自選短篇集」前半のいくつかの作品の端々(とくに「川火」)から、古井由吉を読んでいるときにしばしば感じたことのある何かが、ここにも濃厚に漂ってるようで、そうか…あの「感触」って、これなのか…と、なぜか古井由吉をあらたな視点から再発見してしまったような気がした。たぶん普通に考えて、佐伯一麦古井由吉に似たところはないと思うし、何が似ているのかを端的に書くのは難しいのだが、たとえば被写体を捉えるのに使用しているのが、たまたま同じメーカーの同じ型番のレンズだったみたいな(それで二つの写真に類似性が生じるのかについて自分は知見が無いゆえいいかげんな例えだが)、自身と対象との距離の置き方とか、参照の順序、密度、切り上げの感覚に、不思議な同質性があるような気がするのだ。

ちなみに僕は、たぶん古井由吉を読むのがあまり得意ではないというか、体質的にあまりしっくり来ないところがあるのだが、佐伯一麦作品から受ける印象はその点もよく似てる。ああ、そうそう、この退屈さ、この停滞感の、何とも言えない心地悪さだよなあ…と、ひじょうに体感的にそれを思い出させてくれた。(だからつまらないというわけではなく、むしろ面白い、つまらなくて面白い。)

ただし主人公が夫のときと妻のときがあって、妻のときはまたちょっと感触が違う。この短編集に出てくる登場人物は、主人公と妻、前妻の子供、両親、兄、登場しない姉など親族が中心だが、妻に対して掛かっているはずの重力だけが、他の登場人物にくらべて、ほんの少し軽いような感じを受ける。妻は、夫とはまったく違う人間で、何か存在そのものが、明るい希望のようなところがある。夫にとっての希望として描かれているとかそういうことではなく、もっととりとめないが元々あった素の明るさを放っている感じだ。