真夏の夜のジャズと梅崎春夫

youtubeに全編あがっていた「真夏の夜のジャズ」を観る。1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの様子。みんな、お金持ちで、素敵な服装に身を包んで、ゆったり腰掛けて、ヨットの行く先をぼーっと見つめて、ステージの演者をぼけーっと観て、拍手して、サングラスをして、周りをきょろきょろ見回して、今ここにある夏を、その享楽をこころゆくまで謳歌していて、優雅きわまりない雰囲気に満ちている。

1958年、避暑で遊びにきた人々だ。「あなた、戦争のときは何してたの?」「私まだ子供だったわ。」みたいな会話も、きっと交わされたのだろうか。

今読んでる梅崎春夫「幻化」で、主人公と偶然出会った女がそんな会話をしていた。この小説が舞台とする時期もおそらく「真夏の夜のジャズ」の時期と、ほぼ変わらないと思われる。(「幻化」発表は1965年だが、作品背景は1960年前後ではないかと推測。)

梅崎春夫は「日の果て」を今日読み終わって、これがやたらと面白くて驚いた。え?そう来るのか?だったら面白いじゃん!これは傑作だ!と、先日までの印象がころっと変わってしまって、今はすっかり梅崎春夫作品最高の状態になってしまった。

戦時下のフィリピン、戦況悪化と飢餓に苛まれすでに兵士たちからは瓦解を疑われるまでに追い詰められた陸軍司令部より部隊への帰還を拒否し現地民に紛れて女と暮らしている将校を射殺せよとの命令を受けた主人公が、自らも司令部からの逃亡を企図しつつ目的の人物を探して密林の奥地へ…と云う話で、ほとんど日本陸軍地獄の黙示録」の感があるが、本作の発表は1947年で、あの映画のはるか前である。

生死の境が単なる偶然であること、その事実を前にしては如何なる人道も自己犠牲も無意味であり、しかしそれを徹底して突き詰めた先をこの主人公は知りたく、その行動は逃避でもあり自殺志願でもあり一縷の望みへ近付くことでもあって、本人にも同行の兵士にも一寸先のまるでわからない、この先どうして良いかまったく判断できないまま、地獄巡りのような二人の行軍が続く。そんな苛烈な経験の果て、ついに目的の場に達するまでが、ものすごい緊迫感で、しかもやたらと面白く手に汗握るサスペンスとして終盤の展開へなだれ込んでいく過程が超圧巻である。要するに物語としてめちゃめちゃ面白いのだ。殺し屋あるいはギャングを主人公としたようなハードボイルド小説のものすごく完成度高いやつという感じだ。

ということで興奮のままに「日の果て」を読み終えて、次の「幻化」も続けて読みはじめたのだが、まだ序盤ながらこの作品もやはり、かなり素晴らしい。「日の果て」と「幻化」は、執筆された時期に二十年近い間隔が空いているが、作品の手触りにそれほど大きな変容は感じられない、むしろ同じ作家による同じモチーフの変奏という感が強い、今のところ僕にはそう感じられる。

主人公が何かを言って、あるいは行為を要求して、それを相手が聞き間違える、あるいは間違って解釈する、その結果が主人公を驚かせる、もしくは相手を驚かせる、というやり取りが、「日の果て」と「幻化」の両方に出てくる。これが何とも渋くて、読んでいて感嘆の唸り声を上げたくなる。とにかく偶然性。「いや、思ってたのと違う…」ということ。サイコロの目がどちらかへ転ぶ、あるいは転ばない、そのどうしようもなさに、これらの作品は静かに、つつましく、これみよがしな大げさな身振りにならぬように、しかし執拗に、何度でも驚きたがっているようなのだ。