イ・チャンドン他

Amazon Prime Videoでイ・チャンドン「バーニング 劇場版」(2018年)を観る。幼なじみだった若い男女が偶然再会して、内気な主人公の男は奔放で行動的でつれない彼女に内心では執着しながらもそれを伝えられず、ウジウジと悩んだり、自慰したり、電話を待ったり、やがて彼女が目の前から消え去り、謎を知っているかもしれない金持ちの男につきまとって、さらにいくつもの謎を突き付けられて、ミカン、猫、井戸、ビニールハウス、彼女…。無いものが実はあるのか、あると思ってたものは実はないのか、隠されているのかはじめから無いのか…そんな深みにハマって、そして最後は…という話。二時間半近くじっくりと韓国の田舎の田畑とビニールハウスの広がる荒涼とした景色が、延々と映し出されるところがけっこうすごい。暗闇、雨、沈む直前の夕陽の前で呆然としているばかりの、それなりに好きな感じの退屈さではある。女の子のハッピーなスピリチュアル系な空気読まない性格も、思わせぶりな金持ち男も、なかなかいい感じだ。イ・チャンドンの作品はどれを観ても、とくに屋外の景色など撮影された被写体がとてもきれいなことと、映画としての映画っぽさがけっこうあって、それだけで一定の満足感はある。ラストはじつに安直な終わり方だが、まあそれはどうでもいいことだろう。(本作の原作は村上春樹「納屋を焼く」とのことで、そのテイストは映画内にも濃厚に漂っているのはわかるが、物語としてはさすがにこんな話ではなかったはず。)

続いて、録画してあった日本映画専門チェンネルの白石和彌止められるか、俺たちを」(2018年)を観る。本作がモチーフとする若松孝二らびにその周辺の映画人たちの、当時の日本映画をめぐる時代環境について、僕は何かを語れるような何の知識もないことをあらかじめ言っておかなければならないが、60年代~70年代の空気がじつはこんな感じだったというイメージが、かなりリアリティをもって感じられたところが多々あった。制作(行動)はそのまま規制価値の破壊であり解放運動であると誰もが信じることができて、だからこそ制作集団としての持続的な力になりえたのだろうし、自らを内省・再起し互いを確認し合う場として当時の新宿ゴールデン街をはじめとする同業者の集う飲み屋街が、あたかも現在のSNSのような似た者同士たちの交流の場となりえたということであり、しかし門脇麦が演じた吉積めぐみを思うと、誰もが与えられた条件下で最大の働きを担うべく頑張って報われたり絶望したりするのは今も昔も変わらない、ということでもあると思った。若松孝二役を演じるのは井浦新で、如何にも血圧高そうなおっさんを演じていて意外にいい感じだった。当時は皆声が大きかったのだろうし、威圧的な態度でその場かぎりでもごちゃごちゃ言ってくる相手を蹴散らさなければならなかった。そうでなければダメなのだ、議論で負けては組織の下に示しがつかない。言いがかりを付けてくるやつは全員相手になる。もしくは手下が代行する。そうやって進む。しかし組織化とは経営でもあるから、それとこれとを両立させる、喧嘩や言い合いやきれいごとだけでは済まない。そういう大人のおっさんとしての若松孝二

たまにちょろっと出てくる大島渚とか、実際にあんな感じだったのかどうかは知らないけど、すごく頭良さそうな切れ者風な雰囲気で、たしかにそうだったのかもしれないなあ…と思った。

止められるか、俺たちを」を観終わって再生を止めたら、ちょうど日本映画専門チェンネルで今泉力哉「愛がなんだ」(2019年)が始まってすぐくらいのところで、やはりこの映画はなかなか面白くて、思わずラストまで観終えてしまった。最後に主人公のテルコがさりげなくマモルとすみれに気を遣いつつ、ちゃっかり自分の新たな相手候補として別の男と飲みに行こうとする、あのような大人びた、大人ズレした、ちゃっかりした、世間的にはスマートと言われるような行動を起こすことになる根底には、元々の相手への執念のような思いがあって、そのような心の中の猛火を隠してそつなくやっていくためにこそ、そんな洗練された態度は必要なのだと言わんばかりなところがすごい。けしてあきらめないことが、だからこそ表面的にはすべてから解脱したかのような態度を取らせて、そのうえであらたな戦略を組織するための準備に向けていくのだという、戦いを続けるために必要な知性というか、情熱にかたちを与えて取り組みを継続的なものにしていこうという果敢な姿勢に、感動させられもするし同時に慄いて引いてしまいもするのだ。