5時から7時までのクレオ

北千住の東京芸術センター・シネマブルースタジオで、アニエス・ヴァルダ「5時から7時までのクレオ」を観た。一九六〇年頃のパリ、その景色に強く惹きつけられた。パリを撮った「世界ふれあい街歩き」の、伝説的な最強の回を観たという感じだ。

夏至の明るさを保ったある日の五時から七時までが、五分~十分くらいずつで区切られて、各時間におけるクレオの様子は、人としての前後のつながりもやや希薄なほどに、その都度泣いたり怒ったり喜んだりしているが、そんな個人をパリという都市が包んでいる。自分が癌ではないかと疑っているクレオだが、水玉模様のワンピースに高いヒールでパリの街を闊歩する、目を見張るほどに若くて健康でカッコ良くて魅惑的な姿に、病気の影は微塵も感じられない。街には帽子を売るブティックがあり、カフェがあり、路肩には車がぎっしりと駐車していて、一画には怪しげな大道芸人の周りに人だかりが出来ていて、美術大学の学生が路上を走り回っている。映画の前半から中盤、後半にかけて、番地や通りが変わるにつれて、街並みの雰囲気にじょじょに貧富差があらわれてもいる。さらにもう少しタクシーを走らせれば、行く手には広大な公園が広がっている。

街を歩く、そのときに感じる鮮烈な感覚が、映画の中におどろくほどぎっしりと詰まっている。歩いているときの景色、カフェのテラス席に座っているときの景色、シトロエンのタクシーに乗っているときの車の動きと車窓から見える景色、オープンカーに乗ってるときの景色、それぞれの景色の違いは、搭乗者の目線の高さの違いであり、それぞれの移動速度の違いだ。この違いがいくつも組み合わされて連続して、彼女が見た街の印象がくみ上げられていく。本作においてはとにかく自動車という存在が圧倒的にすばらしくて、あの独特の動きと視点は、今同じような映像を作りたくてももう無理なのではないか。移動機械としての、いかにも当時の自動車らしい感じ、ハンドルを回して舵角を変え、アクセルを踏み、シフトを入れて、駆動力を伝えて、自車が動く。運転の様子と画面の変わり方がはっきりと連動する。真のアナログさというか、物理連動の触感というか、そんな生々しさが、肌感覚で伝わってくるかのようだ。都市で暮らす、街を歩くということの面白さは、今までもこれからもずっと不変なものだろうか。