取り掛かり

たとえば絵を描くときに、最初は大きなアタリをつけるために、下書き線で画面に対する形の入り方や大まかなトーンや余白とのバランスを取って、画面内の構築感と、大まかな動きや流れの行方を検討付けて、ある程度の設計が決まったら、つぎに描きこみをして、いちいちの細部を作り上げていき、全体を完成させるという手順がある。

このやり方が素人的なものに感じられるとしたら、その理由はそもそも絵画で実現させたいイメージが最初の段階ですでに画面上に定義されているのに、それをわざわざ上から塗りつぶして、すでにある線をなぞっていくかのような、フレッシュなものをあえて消去して形骸だけを残すみたいな、そんな体裁だけの作業を想像させるからだろう。

「これって描くのに何時間くらい掛かるんですか?」などと質問されてしまうような(労働量に換算したくなるような)絵は、大抵イマイチで、そうでない絵は、そういうわかりやすい想像の範疇にある時間の経過感覚から自由というか、最初から外れている場合が多い。(労働量の多い絵がダメだと言ってるわけではない。そこは問題の本質ではない。)

時間(の掛からなさ)は、大事なのだ。最初の一分でササっと決めた下書き線の成果を、その後の百時間の作業が遂に越えられないことは多々ある。もちろん百時間ひとつの画面に食い下がっただけの迫力とか厚みは絵に残るかもしれないし、そうなればそれはそれで、その絵の魅力だろうけど、そもそも最初の一分で出来ていた(ゴールに到達していた)はずの、それこそ一秒以下で閃光のように相手に届いてしまえたほどの力は、すでに見る影もない。

細かい整合や辻褄を考えずに、とりあえず、がーーっと描いてしまう。色々気になるところはあっても、あえて考えない。描き方というよりも考え方。わざと大雑把に、勢いを殺さずに、スピードを殺さずに考える。何を活かそうとしているのかを考える。途中で描きかけのままに放り出された、余白やアタリ線もあらわな未完成の絵は、大抵の場合魅力的で、ほとんど可能性のかたまりのようにも見えるものだ。また完成した絵というのは、どんな内容であれ大抵の場合すでに用済み、使い古し、空になった容器の、ように…見える、こともある。

さらに翻って、やはり時間は大事だ。時間(の掛かっている事実)も、大事なのだ。時間が量をうむ。一枚の絵の始まりから完成までに掛った時間というよりも、一枚の絵が、何度も何度もあらわれる、そのあくことなき繰り返しとしての時間堆積。

自分の描いた絵を、自分で見返すのは面白い。それはおそらく、現時点で自分がその絵のもっとも良い鑑賞者ということだ。良い鑑賞者は、その絵の面白味をたいへん微細なところまで掬い取ることができる。この人の描くものは面白い。そう思うなら、そのときは鑑賞者に徹するべきだ。その面白さをきちんと味わい尽くすまで。急に不安を感じて、今だけのニワカな画家に戻ることのないように。ぞの弱さで、出来ていたはずのものをありがちな余所行きの体裁に変えてしまったりすることのないように。